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福岡史伝・戦国 【鷲ケ岳城の攻防】(1579年) 1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひょうえ)の兵と共に、大友方の鷲ケ岳城を攻めるため南面里(なめり・那珂川町)に陣を敷きます。これを知った岩屋城城主・高橋紹運は自ら援軍を率い鷲ケ岳城の救援に向かいます。 大田兵衛は無駄な戦は無用とばかりに早々に兵を肥前に引き上げますが、筑紫広門はそのまま留まり、度々小競り合いを起こして高橋紹運を引き付け城に帰そうとしません。 この時、城主不在の岩屋城には広門と盟約を交わした秋月種実の兵が迫っていたのです。岩屋城からの早馬でこの危機を知った紹運は兵を引き城に戻ろうとしますが、背後から広門の軍が攻撃を仕掛けます。この敵軍をどうにか大利(おおり・JR大野城駅周辺)辺りで押し返し紹運はやっとの事で岩屋城に戻ります。 そして戻った兵と城内の兵は合流し高雄山の麓(西鉄五条駅の東方1km)で秋月の軍と戦いこれを追います。 その後も広門の軍は戦いを仕掛けますが、突然背後に筑後の戦線より駆け戻った立花道雪が現れたため古賀(筑紫野IC付近)長岡(永岡)を通って肥前へ撤退しました。 これで鷲ケ岳城は一旦危機を脱しますが、2年後には再び筑紫広門と龍造寺の軍が攻め寄せ、昼夜問わず猛攻を加えたため遂に開城する事となりました。 以上が「筑前国続風土記・鷲ケ嶽古城」の項に記載される内容の要約です。鷲ケ岳城は那珂川町の山間部・南面里から西方に入ったところにあった山城になります。 このように大友氏は次第に力を失い、筑後を龍造寺隆信に犯され、筑前南部は筑紫広門の抵抗に合い、本拠地・豊後と連携の要の朝倉は秋月種実に度々分断され、大友の武将・立花道雪、高橋紹運は勢力を保ちながらも筑前で徐々に孤立して行くことになります。 関連記事:鷲ケ岳,紹運,広門,種実 |
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福岡史伝・南北朝・室町 【多々良浜の戦い】(1336年)
そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少弐頼尚の出迎えを受けますが、この数日後、肥後の菊池武敏と阿蘇惟直が数千の軍を擁し大宰府に攻め込み、少弐氏の有智山城を攻め落とし頼尚の父、少弐貞経を自害させます。やっとの事で九州にたどり着いた尊氏ですが、そこにも南から敵の大軍が迫っていたのです。 九州に上陸した尊氏の軍は海路随行した手勢と少弐の兵約5百、合わせても1千に程遠い数であったと思われます。 いったん宗像大社の宗像氏範の館に身を寄せて、南朝側の豪族陣営に使者を送り「『建武の新政』で武家が没落すること」や「陸路、数万の足利軍が九州に向っていること」、「光厳上皇と連携の件」といった事を多少は過大に触れて回ったと想像されます。 そして3月2日にはついに、多々良浜で菊池武敏と対決することになります。この時点で、南朝側の勢力は3万とも6万ともいわれています。 これに対し尊氏の軍は宗像氏範の兵と大宰府から落ちてきた少弐の敗残兵、豊後から駆けつけた大友氏泰(本人は京より尊氏に随行)の兵を合わせても3千、多くても6千程度ではなかったかと思われます。対等に戦うには無理がある数でした。 しかし戦いが始まると、緒戦は菊池が優勢だったものの、南朝側に積極的に動かない豪族や、寝返る豪族が出たため、形勢は逆転し勝敗を決しました。菊池武敏は肥後に撤退し、阿蘇惟直は佐賀方面(小城天山)まで退きましたが千葉胤貞の軍勢に囲まれ自刃しました。 尊氏はこの勝利をきっかけに、九州武士団を糾合し東に向って攻め上り、3ヶ月後の6月には京都を奪還することになります。 「多々良浜の戦い」は上の写真の数百mほど上流(写真奥)で起こりました。右手が博多方面で菊池軍が布陣し、 写真には写っていませんが左手の小高い丘に尊氏の軍が陣取りました。 (2011.4.29)
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