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 【茶器「楢柴」の事】(戦国時代)-博多の豪商・嶋井宗室が所有した茶器-

豊臣秀吉に対抗し島津氏に属して戦った秋月種実は、秀吉軍の九州上陸で勢いづいた立花宗茂の兵に追われ秋月に籠もります。そして秀吉自身が九州に乗り込んで来ると、種実は息女と天下の茶器「楢柴(ならしば)」を秀吉に差し出し降伏します。秀吉はこれを受け入れ種実は日向に転封される事となり、取り潰しを免れました。
秋月氏の窮地を救ったこの茶器「楢柴」は元々、博多の豪商・嶋井宗室が所有したもので、豊臣秀吉や大友宗麟から所望されるも譲らなかったといわれる一品です。秋月種実も「楢柴」をどうしても手中に収めたく使者を幾度となく送りますが、宗室はどうしても手放そうとしなかったために、遂に武力で奪おうとします。これに宗室はとうとう諦め、「楢柴」を譲り渡すことにします。種実の使者は宗室邸に来訪し、大豆百俵と引き換えに「楢柴」を持ち帰りますが、宗室は使者が去った後に、この引渡しに使用した部屋を打ち壊したといわれています。混乱期の商人たちは物を右から左へ動かすだけで巨額な利を得ていたといったイメージが強いのですが、実際は戦国の豪商たちも乱世を生き抜くのが容易でなかったことを伝える逸話だと思われます。

その後「楢柴」は豊臣家から徳川家へと渡りますが、1657年の明暦の江戸大火で行方知れずとなったと言うことです。

-参考「古代の都市・博多」(朝日新聞福岡総局編/葦書房)-



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名所旧跡・中央区城南区
 【福岡城跡】-城内・舞鶴公園-




 【三の丸(松ノ木坂)】

福岡城は初代福岡藩主・黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年がかりで築城しました。 ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内郭は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、 潮見櫓、多聞櫓、花見櫓をはじめとする47もの櫓がありました。 城内の建物や石垣は、火災による焼失や自然災害による崩壊などによってしぱしぱ修復が行われたほか、 江戸期を通じて若干の改変がありましたが、築城当初の縄張りに大きな変化はなかったようで、 内郭部分で41万㎡(福岡ドーム6個分)の広さを誇った雄大さを今も感じることができます。 城下の武家屋敷までを含めると246万㎡(福岡ドーム35個分)もの広さを持つ、日本有数の広大な城です。 現在地は三の丸の「松ノ木坂御門跡」へ続く入口にあたリ、ここから二の丸、本丸、天守台へと城内を登っていくルートのひとつでした。 ここ三の丸には、藩主を支える家老たちの屋敷群がありました。

「福岡城物語」案内板より


以前から「福岡城には天守閣がなかった」と言われていたようですが、最近では「築城当時には存在したものも黒田長政が幕府への配慮から取り壊したのでは」といった話も出ているようです。
また短い期間ですが藩祖・黒田如水は福岡城の基礎ができると太宰府の草庵よりこの城の三の丸・御鷹屋敷に移り余生を過ごしました。






天守台

 【福岡城天守台】
歴代の福岡藩主も眺めたであろう天守台跡からは、福岡市内360度全方向のパノラマを楽しめます。 江戸時代なら福岡城下を一望できたことでしょう。そして、もしも天守閣が存在していたとしたら、 そこからはよりー層爽快な眺めが得られたはず。 この天守閣の有無については議論されていますが、仮に存在したとすると、 天守台の礎石や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推定され、 東側に中天守、小天守が立ち並ぶ52万石の大藩にふさわしい偉容を誇ったに違いありません。

「福岡城物語」案内板より



鉄御門跡

 【本  丸】
本丸は、藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」があり、天守台へと続く福岡城の中心部です。 天守台への入口となる「鉄御門跡」が残っていますが、要衝の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。 高く積まれた石垣の上に櫓や塀が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていました。この鉄御門跡の先には埋門跡があり、 やはり狭い門となっています。 定説では福岡城には天守閣がもともと建設されなかったとされていますが、 近年では天守閣の存在をうかがわせる文章が発見され、 「はじめは天守閣が建設されたが、後年取り壊されたのではないか」という説も説得力を増しており、 「幻の福岡城天守閣」をめぐる議論が続けられています。

「福岡城物語」案内板より



祈念櫓

 【本丸(表御門跡・祈念櫓)】
二の丸から表御門跡を抜けると、いよいよ福岡城の中枢である本丸となります。 表御門は大正7年(1918年)に、黒田家の菩提寺である崇福寺(博多区千代)に移築され、 現在まで同寺の山門として使用されています。 また、本丸の東北方向(鬼門)の角には、祈念櫓があります。 これは鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると万延元年(1860年)3月に起工、同年10月に竣工したものです。 この櫓は、大正7年(1918年)に、陸軍省から払下げられ、北九州市八幡東区の大正寺境内に移築、観音堂として使用されました。 そして昭和58年(1983年)、同寺より福岡城の旧位置に戻された経緯があります。 大正初期の撮影と推定される写真の祈念櫓をみると、下見板張り、白漆喰の壁、軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓となっており、 復元された現在の祈念櫓とは著しく外観が異なっており、別の櫓かと思われるほどですが、 福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたと考えられています。1、2階の窓格子は白漆喰塗り仕上げで当時の様子をとどめています。 福岡城の特徴として、47ともいわれる多数の櫓があったことが挙げられますが、現存しているのは本櫓のほか、 国指定史跡の多聞櫓や解体保存中の潮見櫓など数えるほどとなっています。

「福岡城物語」案内板より



名島門

福岡市指定文化財(建造物)  名島門
         昭和53年3月30日指定

この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596~1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅門として使用されていましたが、戦後富士ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩大郎氏の孫)によって現在地に移されたものです。

昭和63年2月 福岡市教育委員会

案内板より



旧母里太兵衛邸長屋門

福岡県指定文化財 旧母里太兵衛邸長屋門

筑前今悸の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、黒田二十四騎の一人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。 黒田長政が筑前入国後、六つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長二十年(1615)六月六日病没した。 現在の天神二丁目の野村証券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。 武家屋敷長屋門として代表的なこの江戸時代の優れた建造物を末永く保存していくため、昭和三十一年に県の文化財に指定され、同四十年にこの地に移築されたもので、今もなお往時の姿を伝えている。

昭和五十三年三月  福岡市教育委員会

案内板より



御鷹屋敷

【黒田如水隠居地(三ノ丸御鷹屋敷)跡】

黒田官兵衛孝高(如水)[1546~1604]は、戦国時代の武将で、筑前黒田藩の藩祖とされる。はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが、のちに羽柴秀吉に従い、竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、中国、四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ、同地に中津城を築いた。 長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。如水の隠居後、関ヶ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、如水もその晩年を福岡城で過ごした。 福岡黒田家に仕え、儒者・博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。 是又本丸より高かりしかぱ、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、如水公の兎裘の宅地(隠居地)とせらる。」という記述のある「三ノ丸御鷹屋敷」は現在のここ「ボタン・シャクヤク園」にあった。

福岡教育委員会

案内板より











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スポットライト人物伝


【安達盛宗(あだちもりむね)】
(?~1285年)


鎌倉の「霜月騒動」で自害した安達泰盛の子で「弘安の役」の戦後処理を行なっていましたが、 「霜月騒動」の余波を受け少弐経資に博多で討たれたとも、少弐景資の岩門城で討死したともいわれています。



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