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余談
 【五郎山と天山と宝満山】

五郎山と天山と宝満山
福岡県筑紫野市にある歴史にまつわる三つ山を撮影しました。(北に向かって撮影しています)
 手前が五郎山古墳がある原田・五郎山。五郎山古墳は終戦から2年後に発見された6世紀後半の古墳とされ内部では壁画が発見されています。現在は国指定の古墳となり、山は公園として整備されています。
 手前から2番目のやや右手の山が昔は天山(あまやま)と呼ばれた宮地岳になります。徐福伝説に因む「童男丱女岩」と呼ばれる岩石群が見られ、戦国時代にはこの山の麓に筑紫広門配下の柴田城がありました。広門と同盟関係にある秋月種実はこの城を足掛かりに、高橋紹運の岩屋城城下に攻撃を仕掛けています。
 そして一番奥の左手の山が宝満山で、高橋紹運配下の難攻不落の宝満城があった山になります。島津氏の筑前攻略の際には紹運と手を結んだ筑紫広門配下の兵と紹運の次男・高橋統増が守りますが、広門が島津勢に降伏し、紹運は岩屋城(太宰府市・大野山にあった城)で壮絶な戦いの末に自刃したため、筑紫の兵の勧めで開城降伏しています。






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豊臣秀吉の筑前一夜城(1587年)【福岡史伝・戦国】
島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小倉から行橋をまわって筑豊に入り、島津方の秋月種実の城を攻略します。秀吉軍の勢いに形勢不利とみた種実は居城とした益富城(嘉麻市大隈町)を捨て本拠地の古処山城(秋月の北東の山頂)に籠もります。 夜になり.....

野上一閑と三奈木弥平次(原鶴の一騎打ち)【意外な人物伝】
大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりました。貝原益軒は「筑前国続風土記」巻之二十五 古城古戦場二 原鶴 の項で一閑入道の事を次の通り描写し.....

五郎山と天山と宝満山(2018年3月5日)【余談】
福岡県筑紫野市にある歴史にまつわる三つ山を撮影しました。(北に向かって撮影しています)  手前が五郎山古墳がある原田・五郎山。五郎山古墳は終戦から2年後に発見された6世紀後半の古墳とされ内部では壁画が発見されています。現在は国指定の古墳となり、山は公園として整備されています。  手前から.....

毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

高橋と筑紫の和約(1586年)【福岡史伝・戦国】
大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥前南東部(鳥栖市北部)に割拠する筑紫氏は、この三度の「筑前騒乱」全てにおいて大友氏と反目し戦いを挑ん.....

耳川の戦い-筑前・筑後-(1578年)【福岡史伝・戦国】
大友方の多くの将兵が斃れた耳川 1584年には龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津軍に敗れ討死するも、翌年には頼りの立花道雪も病没し、大友氏は窮地に陥ります。島津勢は肥前、筑後の兵をも取り込み益々勢力を増し攻勢に出ます。これに抗す手立てを失くした豊後の大友宗麟は遂に大坂に出向き豊臣秀吉に.....

鷲ケ岳城の攻防(1579年)【福岡史伝・戦国】
1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひょうえ)の兵と共に、大友方の鷲ケ岳城を攻めるため南面里(なめり・那珂川町)に陣を敷きます。これを知.....

休松の戦い(1567年)【福岡史伝・戦国】
毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。 1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。 大友宗麟は戸次鑑連(べっきあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきなお・高橋紹運の実父)、臼杵鑑速(うすきあきす.....

戦国時代(少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」)【一夜漬け福岡史】
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。 しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します.....

茶器「楢柴」の事(博多の豪商・嶋井宗室が所有した茶器)【Fアイテム】
豊臣秀吉に対抗し島津氏に属して戦った秋月種実は、秀吉軍の九州上陸で勢いづいた立花宗茂の兵に追われ秋月に籠もります。そして秀吉自身が九州に乗り込んで来ると、種実は息女と天下の茶器「楢柴(ならしば)」を秀吉に差し出し降伏します。秀吉はこれを受け入れ種実は日向に転封される事となり、取り潰しを免れました。 .....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

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余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
春風を以って人に接し、秋霜を以って自らを粛す
言志後録





名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【光明禅寺】-太宰府市宰府-

光明禅寺は1273年、鉄牛円心によって開山された臨済宗の禅寺です。枯山水の庭園があり秋になると美しい紅葉が広がり、多くの観光客の心を癒します。庭園にむした苔のため、別名「苔寺」とも呼ばれています。

鉄牛円心は円爾(えんに)の弟子で、ここ光明禅寺で円爾の言行を記す「聖一国師年譜」を編纂しました。 円爾は宋に渡った高僧で、帰国後、大宰府や博多に2年程滞在しました。この滞在中の1241年博多で疫病が流行し、円爾は疫病を鎮めるため町人の担ぐ施餓鬼棚に乗って、博多の町に祈祷水を撒いて廻りました。これが博多山笠の起源になったといわれています。














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スポットライト人物伝


【小野岑守(おのみねもり)】
(778年~830年)


平安初期の政治家で伝説の詩人・小野篁(たかむら)の父親になります。文人でもあり「凌雲集」「日本後紀」の編纂にもあたります。大宰大弐として着任した際、道端に行き倒れた人々を目の当たりにし、これをあわれみ救済施設「続命院」を創設します。
余談になりますが、幕末維新に活躍した医師・高松凌雲の号は福祉に勤めた岑守の編纂した「凌雲集」が元になっているのかもしれません。




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