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豊臣秀吉の筑前一夜城(1587年)【福岡史伝・戦国】
島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小倉から行橋をまわって筑豊に入り、島津方の秋月種実の城を攻略します。秀吉軍の勢いに形勢不利とみた種実は居城とした益富城(嘉麻市大隈町)を捨て本拠地の古処山城(秋月の北東の山頂)に籠もります。 夜になり.....

野上一閑と三奈木弥平次(原鶴の一騎打ち)【意外な人物伝】
大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりました。貝原益軒は「筑前国続風土記」巻之二十五 古城古戦場二 原鶴 の項で一閑入道の事を次の通り描写し.....

五郎山と天山と宝満山(2018年3月5日)【余談】
福岡県筑紫野市にある歴史にまつわる三つ山を撮影しました。(北に向かって撮影しています)  手前が五郎山古墳がある原田・五郎山。五郎山古墳は終戦から2年後に発見された6世紀後半の古墳とされ内部では壁画が発見されています。現在は国指定の古墳となり、山は公園として整備されています。  手前から.....

毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

高橋と筑紫の和約(1586年)【福岡史伝・戦国】
大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥前南東部(鳥栖市北部)に割拠する筑紫氏は、この三度の「筑前騒乱」全てにおいて大友氏と反目し戦いを挑ん.....

耳川の戦い-筑前・筑後-(1578年)【福岡史伝・戦国】
大友方の多くの将兵が斃れた耳川 1584年には龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津軍に敗れ討死するも、翌年には頼りの立花道雪も病没し、大友氏は窮地に陥ります。島津勢は肥前、筑後の兵をも取り込み益々勢力を増し攻勢に出ます。これに抗す手立てを失くした豊後の大友宗麟は遂に大坂に出向き豊臣秀吉に.....

鷲ケ岳城の攻防(1579年)【福岡史伝・戦国】
1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひょうえ)の兵と共に、大友方の鷲ケ岳城を攻めるため南面里(なめり・那珂川町)に陣を敷きます。これを知.....

休松の戦い(1567年)【福岡史伝・戦国】
毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。 1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。 大友宗麟は戸次鑑連(べっきあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきなお・高橋紹運の実父)、臼杵鑑速(うすきあきす.....

戦国時代(少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」)【一夜漬け福岡史】
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。 しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します.....

茶器「楢柴」の事(博多の豪商・嶋井宗室が所有した茶器)【Fアイテム】
豊臣秀吉に対抗し島津氏に属して戦った秋月種実は、秀吉軍の九州上陸で勢いづいた立花宗茂の兵に追われ秋月に籠もります。そして秀吉自身が九州に乗り込んで来ると、種実は息女と天下の茶器「楢柴(ならしば)」を秀吉に差し出し降伏します。秀吉はこれを受け入れ種実は日向に転封される事となり、取り潰しを免れました。 .....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
怒なく、うれいなく、過ぎ去りたる人の過ちをとがむべからず。我が過ちをしきりに悔ゆべからず。
養生訓





一夜漬け福岡史
 【南北朝・室町時代】-「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ-

大刀洗の「菊池武光像」
1336年、後醍醐天皇軍との戦いで不利に陥った足利尊氏は、いったん京都から九州に落ち態勢を立て直そうとしますが、九州に上陸早々、 肥後より攻め上って来た菊池武敏の軍と博多より4キロ程北東の多々良浜で対決することになります。 決戦を前に尊氏は多々良川の対岸に布陣する敵の大軍を目の当たりにし、死を覚悟したといわれています。 しかし実際に戦いが始まると敵には動かない勢力や寝返る軍勢が出て尊氏は勝利します。
この「多々良浜の戦」で少弐氏と原田氏は尊氏側、秋月氏は菊池側で参戦しています。

「多々良浜の戦」に勝利した尊氏は九州武士団を率い再び京都へ向けて攻め上りますが、 九州を去るにあたり配下の一色範氏(いっしきのりうじ)を九州探題として残します。 しかし、この処置が筑前を地盤とする少弐氏にとって面白いはずがなく、当然の流れとして一色氏との対立が起こります。 また、この北朝側の内紛に乗じ肥後の菊池氏も再び筑前に進出し、筑前三国志の様相を呈します。 少弐氏は一色氏との争いで不利な状況に落ち入ると「敵の敵は味方」という訳で菊池氏と手を組み、 一色氏を九州から追い落とします。
しかし共通の敵が消えると再び少弐、菊池の両氏は争います。 1359年、日本の三大合戦に挙げられる「筑後川の戦い」で両者は激突します。 双方合わせて10万の兵が入り乱れて闘い、4人に1人が死傷するという未曾有の戦いになりました。 結果的に少弐氏が不利な状況で戦いは終わり、2年後に菊池氏が大宰府を奪います。

その後、斯波氏、渋川氏が九州探題に任命されるも北朝方は九州を挽回できず、今川了俊の就任によって漸く大宰府を奪還します。 その20年後に南北朝が統一されると、1395年に今川了俊は失脚し京都に呼び戻され、九州探題には渋川氏が任命されます。 しかし当然の事として歴代の探題とそりの合わない少弐氏と争うこととなります。 この争いに乗じ、今川了俊の九州制圧を手助けした長門周防の大内氏が筑前に勢力を伸ばします。 これにより渋川氏も少弐氏も肥前に追われます。そして1467年に「応仁の乱」が起こり10年ほど動乱が続きますが、 少弐氏はこの混乱で兵力が手薄になった大内勢を追い筑前を奪い返します。しかし少弐氏の筑前支配も「応仁の乱」の収束と伴に終わり、 再び筑前には大内氏が大軍を送りを勢力下に置きます。 少弐氏は以後も筑前の奪還を試みますが、ついには配下の離反が起こり龍造寺氏に攻められ滅びます。 そして龍造寺氏は肥前で勢力を拡大し戦国大名にのし上ります。

(2012.11.26)









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スポットライト人物伝


【中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)】
(626年~672年)


645年の「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我入鹿を暗殺し、政権を掌握します。 その後、新羅・唐の連合軍に百済が滅ぼされると百済復興の軍を起こしますが、日本軍は「白村江の戦い」で 破れたため以後は九州の防衛に力を入れ大宰府の移転、水城、大野城を築きます。 この中大兄皇子は意外なことに水時計の研究開発も行った様で大宰府政庁にも水時計が設置されていたということです。



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