官兵衛の兜

如水が一番大事にした兜 -銀白壇塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)- は何故か現在、 岩手県盛岡市に存在していますが、その経緯は次の通りです。 兜は正室・光の実家の櫛橋家より光との婚儀の前年に送られたものですが、 晩年に死期を悟った如水はこの兜を一番信頼の厚い重臣・栗山利安に託し、息子・長政には「この兜を父と思え」と遺言します。 その後、利安の子・栗山利章(としあきら・大善)に引き継がれますが、 利章は長政の子の二代藩主・忠之と不仲となり徳川幕府の命令で盛岡南部藩預けとなります(1632年・黒田騒動)。 その際に利章はこの兜を盛岡に持参し南部藩へ献上し現在に至っています。
ところで「合子(ごうす)」とは蓋付きの器のことで、この兜はその名の通り器を逆さまにした形で見た目に非常にシンプルな形状をしています。 官兵衛(如水)の着用でなければ、とても戦場で敵に武威を張る様にも見えず、味方にも主将本隊の位置を知らせ威光を響かせる様にも見えないのですが、 この辺りの事情は「(最前線で刀槍をふるい敵将を討つよりも、帷幕にあり)采配を振りて、一度に敵を千も二千も討ち取ることは得手者に候。」 という如水の言葉から察せられるような気がします。 また敵兵の槍や木の枝などに引っ掛かかる様なこともなく機動性、実用性に富み、 華美を好むところがなかった如水の性格にピタリと合ったのかもしれません。

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