久留米城跡

-久留米市篠山町- 

 
【久留米城趾】

戦国時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって興亡の歴史を綴りながら、元和七年(1621)有馬豊氏丹波福知山より転封入城し、以降廃藩に至るまで十一代二百五十余年の間、有馬家累代の居城として藩府が置かれていました。
本城は北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活用したすこぶる険要の地にあります。築城法は平山多聞造りで、高い白土の城壁にそびえたつ二層と三層の七つの櫓があり、本丸東南隅の三層建の巽櫓は壮大な偉容を誇っていました。
現在は石垣だけが残り、場内には有馬三氏を祀る篠山神社や、有馬家資料を展示する有馬記念館があります。春は花見、六月はしょうぶ、八月二十五日には鈴虫際と、市民の憩いの場となっています。

久留米城趾の案内板より

 
 

 
永正年間(1504~21)に筑後川ぞいの小高い山に築かれた平山城が、久留米城の始まりとされる。高良山勢力の出城であったらしく、天正11(1583)年から3年間、高良山座主麟圭(りんけい)はこの城に籠り、豊後大友氏と戦っている。
天正15年、豊臣秀吉の九州国割により、久留米城には毛利秀包(ひでかね)が入城する。関ヶ原の戦いで毛利家が断絶すると、田中吉政が筑後一国の領主となり、筑後北部の支配の拠点であるこの城には次男則政が置かれた。
元和7(1621)年、有馬豊氏が田中家の改易をうけて筑後北半21万石の大名として入城し、幕末まで有馬家の城下町として栄えることになる。
有馬家は入国当初から約40年かけて、廃城となっていた久留米城の大改修を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸・外郭に濠を廻す連郭式城郭を建設している。二ノ丸以下の郭にあった町屋・寺社を場外に移転させ、それを守るような形で荘島・櫛原・京隈などの士屋敷を配置した城下町を作りあげている。
この城郭と城下町が現在の久留米市街地の骨格になっており、市街地には往時をしのぶ多くの史跡を見ることができる。
久留米城下町の案内板より

 



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