月形洗蔵幽閉の地

-筑紫野市古賀-
 

 

 【月形洗蔵幽閉の地の碑】

月形洗蔵は禄高百石の福岡藩士で天下にその名を知られて平野国臣らと共に明治維新の勤皇の志士である。
祖父質は儒学者として名をなし、父深蔵は辺防之策を著して海防の急であることを説いた憂国の士である。
このような家系に文政十一年(一八二八)五月五日に生まれた洗蔵は実名詳(つばら)と云い幼くして学問を好みのち優れた兵学者となったが、尊王の志篤く万延元年五月藩主黒田長溥の参勤交代に際し、王政復古をめざしての藩政の改革こそが急務で参勤の時に非ずとの建白書を提出した。
このため藩政を妨げた罪により捕らえられ家禄は多く没収されて、中老立花吉右衛門、同家臣松尾富三郎預けとなり立花の知行所御笠郡古賀村○(不明)伯五三郎宅に牢居の身となった。
獄中では終日端座して書を読み、或は近在の子弟に学問を教えることを常とし、元治元年五月罪を赦されると家禄も複した。
同年秋、幕府の長州征伐が起こり、長州藩士高杉晋作が福岡に難をさけた時には同志と謀りこれを平尾山荘に匿った。十二月には藩命により長州へ渡り、征長軍解兵の重大条件である五卿遷座の件で大宰府説をもって五卿の同意を得、その実現に全力を尽くし、併せて筑前藩が推進中の征長軍解兵、薩長二藩の融和に協力した。

然るに、藩内佐幕派の台頭により六月身柄を一族中預けとなって九月には桝木屋の極に下り、終に十月二十三日同志と共に斬首にあいこの世を去った。
明治丗一年七月特旨を以て正四位を贈叙される。
法号顕忠院心誉帰道居士 墓は少林寺(福岡市)にある。

昭和六十二年八月吉日建之

元福岡大学教授 井上 忠 撰
発起人 松尾 勝則
三沢 鷹次郎
筑紫野市立
歴史民族資料館長
武藤 久雄 書
 
「月形洗蔵幽閉の地」の碑の銘板より

 
月形洗蔵は尊王の志士としては平野国臣に劣らない思想家だったようです。
しかし、この碑にも書かれているように幽閉の期間が4年と長く、活動家として行動できたのは、あまりにも短い元治元年5月~慶応元年6月の約1年間でした。
 



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