学校院跡

-太宰府市観世音寺-
 


 

 
【学校院跡】

学校院は、西国の役人を養成する機関である。大宰府政庁の東側にあるこの地区は、小字名を「学業」ということから、学校院があったと考えられている。
学校院では、博士を教官として、中国の「五経」「三史」等の書物を教科書に、政治・医術・算術・文章など、役人として必要なことを学んだ。古代の教育システムでは、通常は国(ほぼ現在の県にあたる)ごとに国博士がおかれるが、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の六国には博士はおかれず、学生は大宰府で修学した。学生は、所定年内に必要な科目を修得した後に、試験に合格すれば役人として採用される。天応元年(781)には約200人の学生が大宰府に集まったとの記録があり、大宰府が学問の中心地としても機能していたことを知ることができる。

太宰府市

 

「学校院跡」の案内板より

 
 
「筑前国続風土記」では、「学業院(学校院)は吉備真備(きびまきび)が建てたと伝えられているが、おそらく真備が天平6年(734)、大宰大弐に任じられた時の事ではないか」と推測しています。
また神護景雲3年(769)には大宰府より「この地は人が多く天下の一大都市です。学生は多く、ある程度の学者もいます。それなのに蔵書は『五経』のみしかありません。どうか歴代史書を給わえないでしょか」と稟議書が朝廷に提出されますが、時の女帝・称徳天皇はこれに応え『三史』『三國志』『晋書』各一部を大宰府につかわしたという事も記載されています。
そして最後に著者の貝原益軒は「戦乱で学業院は絶え、書物も消え失せ、今では農家の庭となってしまった。惜しんでもなお余りあり、誠に嘆かわしい事である。」と締め括っています。
ところで『五経』とは儒教の基本となる五つの書物で、『三史』は司馬遷の「史記」、班固の「漢書」、范曄の「後漢書」の事になります。
 



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