七卿落ちではなく五卿落ち? (1863年)

-五卿のその後-

1863年「8月18日の政変」で会津薩摩の両藩に長州藩が京都を追われると、攘夷派の三条実美ら七卿も長州に落ち延びました。これが世に言う「七卿落ち」です。その後、七卿の一人、澤宣嘉は1863年10月「生野の変」に平野国臣と共に身を投じ、もう一人、錦小路頼徳は1864年6月長州にて病没します。残った五卿は、「禁門の変」、「第一次長州征伐」を経て、福岡黒田藩が預かることなり、長州より太宰府の延寿王院に移りました。この時、筑前勤皇党の月形洗蔵は五卿を下関まで出迎えに行っています。

 
■五卿のその後を簡単に記します。

三条実美 右大臣、太政大臣、内大臣を勤め、一時的に内閣総理大臣を兼任する。
三条西季知 大納言に復し、皇太后宮権大夫、参与を勤める。
四条隆謌 戊辰戦争に従軍、陸軍陸軍少将、陸軍中将を経、元老院議官を勤める。
東久世通禧 神奈川府知事、第二代開拓長官、岩倉使節団に随行、元老院副議長などを勤める。
壬生基修 戊辰戦争に従軍、東京府知事、 元老院議官を勤める。


「七卿落ち」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2011年5月1日(日)10:45
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