自由の気風の「亀井塾」 (1762年)

-昭陽先生と生徒たち-

「漢委奴国王」の金印を鑑定した父・亀井南冥(なんめい)の後を継ぎ、私塾「亀井塾」を起した昭陽先生はある日、近隣・若者組の神事用・幟(のぼり)の揮毫(きごう)を快く引き受けますが、数日後、そのお礼にと塾へは酒が届けられます。
先生はその日の授業が終わると、さっそく生徒たち(元服済み)と「一杯やるか」と酒宴を開きます。陽はまだ高く、時は梅雨の上がった夏の入り、渇いた咽に清酒がしみる。「一杯、一杯、また一杯」詩仙の心がよくわかる。
ほろ酔い気分になってきた生徒たちは、いつもお世話になっている昭陽先生へ次から次に酒を勧めます。
その酌は「長篠の戦い」の鉄砲三段撃ちの如し、先生もかわいい生徒の杯を拒めずにゴックゴク、お開きの頃には悪酔い状態になってしまいます。
調子に乗った生徒たち、今度は先生を置いて近くの浜辺に海水浴へと繰り出します。
赤裸で戯れたその後は、各々、着物も着ず褌(ふんどし)はたたんで頭に載せて村道を堂々と帰宅の途につきました。
翌日、この醜態を聞き知った昭陽先生。「亀井塾は自由の気風と言えども、やり過ぎはよろしからず」と生徒の代表五名を呼び出し誓約書を書かせます。

その一節、「日頃からお世話になっているからと先生に呑ませ過ぎ、嘔吐させるまでに至り誠に申し訳なく思っております。私たち生徒一同は先生の健康を一途に願っております。どうかご察しください」
昭陽先生その誓約書(詫び状?)を朱墨で添削し「君らの気持ちはよく解った」と一件落着となりましたが、その後、生徒たちの酒癖が改まったかどうかは記録に残っていないようです。

-参考・引用「福岡歴史探検①近世福岡」(福岡地方史研究会/海鳥社)-


亀井昭陽は江戸中期の高名な儒学者で「日本外史」の頼山陽と交流を持っています。
また藩校「甘棠館」の廃校後は、私塾「亀井塾」を開き、そこでは日田に「咸宜園」を開いた広瀬淡窓が学んでいます。
ここで取り上げたのは福岡地方研究会の「福岡歴史探検」という本に記載されている話です。
話の中に出てきた「誓約書」は昭陽の息女の嫁ぎ先に代々伝えられ現存しているということですが、おそらく昭陽先生は生徒の代表五名の内の一人に娘を嫁がせたものと想像されます。
また生徒たちが海水浴を楽しんだのは現在のヤフオク(福岡)ドームの南側辺りにあった浜辺だと思われます。