「刀伊の海賊」を撃退した男 (1019年)

-暴れん坊中納言・藤原隆家-

「東(あづま)男に京女」なんて言葉がありますが粗野粗暴のイメージは東男だけの特権ではないようで、意外なことに平安時代の京男にも結構な豪傑がいたようです。
その人の名を藤原隆家といいます。父親は朝廷№1の実力者、姉は天皇の中宮(第一婦人)という名門ゆえに、十代半ばにはやりたい放題を繰り返します。たとえば花山法皇との確執からひと悶着起こし、とうとう最後には法皇の袖を矢で射抜いてしまいます。
若気の至りとはいえ相手は前天皇ですのでただでは済まされず、出雲に配流の身となります(長徳の変、996年)。この乱暴狼藉、もし尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる幕末ならば大変な事になっていたかったかもしれませんが、この頃は藤原氏全盛期の貴族の時代、翌年には許され京都に戻ることができました。

ただこの人は粗野粗暴だけの人物ではなく、洒落もわかる豪放磊落の人だったようで清少納言の「枕草子」にもその人柄が描かれています。
ある日、清少納言の仕える中宮定子(ちゅうぐうていし、一条天皇の后で隆家の実姉)のところに隆家がやって来て「世にも珍しい扇の骨が手に入りましたので姉上に献上したく参りましたが、世にふたつと無い扇の骨なので今のところ、その骨に合う紙が見つからないのです。」と残念がります。これを傍らから聞いていた清少納言が「そんなに珍しいのならば、それは扇の骨ではなくクラゲの骨ではないのですか?」と冗談をいうと、隆家は「その洒落は私が言ったことにしよう!」と言って大笑いしたという内容なのですが、今で言うなら、さんま師匠の言葉を借りて「そのネタ、モロとこ」もしくは「それオモロっ、メモっとこ」といったところでしょうか。

ところで京都に戻った隆家は、父に取って代わって朝廷の実力者となった叔父との確執に嫌気が差し、三十代半ばの頃に九州大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任します。
そしてその5年後の1019年、突然「刀伊(女真族)」の海賊が博多湾に現れ早良や能古島を襲い、略奪を繰り返します。大宰府長官の隆家は「ワシの出番や!」とばかりに兵をかき集め、箱崎に上陸し暴れまわる刀伊の海賊を急襲、奮戦し撃退する活躍をしたといわれています。