大宰府、水城、大野城を築く (663年~665年)

「白村江の戦い」に敗れると、中大兄皇子は新羅・唐の連合軍の九州侵攻に備え、664年九州の行政機関「官家」(那津)の機能を造営中の「観世音寺」の西側に移し「大宰府」とします。そして敵の侵攻を食い止めるため前面(博多湾側)に濠を掘った大堤「水城」を築き、翌665年には大野山に百済貴族の指導を元に石垣を張り巡らした「大野城」を築城します。
これより大野山(四王寺山)の南側の地域は九州の政庁「大宰府」と大規模寺院の「観世音寺」の築造が進み、大都市への道を歩み始めることになります。