観世音寺建立 (661年)

斉明天皇は百済復興支援のため入った九州で突然崩御します。中大兄皇子はこの母のために大野山の麓に大規模寺院を創建することを決めますが、これが85年の歳月をかけて完成する「観世音寺」です。

斉明天皇は重祚(二度以上、天皇の地位に在位すること)した初めての天皇で二代前に皇極天皇として在位しています。この皇極天皇の時代に中大兄皇子はこの母の目の前で、蘇我入鹿を暗殺します。その際、斬りつけられた入鹿は皇極天皇の前に倒れこみ「御前であるぞ!私に何の罪があるというのだ?」と叫びます。この暗殺の件を知らなかった皇極天皇は驚き、息子の中大兄皇子になぜこのような振る舞いをするのか詰問しますが、皇子は「入鹿が皇族を殺し、皇室を傾けるからです」と答えます。この状況を止めることは無理と悟った皇極天皇はこの場を後にし、蘇我入鹿は殺されます。これが645年の「乙巳の変」(いっしのへん)です。
この件で皇極天皇は退位し中大兄皇子に位を譲ろうとしますが、皇子は受けず天皇の弟の孝徳天皇が即位します。
654年には孝徳天皇が崩御し中大兄皇子が再び皇位に押されますが、皇子はここでも受けず、母が斉明天皇として再び即位します。拘束を受けない自由な立場で行動したかった中大兄皇子としては、信用できる人が天皇の座にいて欲しかったはずで、その人が天皇の経験がある母親だったと思われます。
斉明天皇は「乙巳の変」のこともあり即位には気が進まなかったと想像されますが、天皇の実務はすべて中大兄皇子が行う事を条件に重祚したものではないでしょうか。また百済救援のための九州入りも、67歳という老齢ながら「皇子のためなら」と思い中大兄皇子の依頼に従ったものでしょう。

このような経緯で、苦労をかけた母への償いの気持が「熟田津の石湯行宮」立寄りや「朝倉橘広庭宮」滞在、「観世音寺」の建立へとつながって行ったのかもしれません。