乙丑の獄 (1865年)

1864年、長州征討を受けた長州藩は一旦恭順を示しますが、筑前・平尾山荘に逃れていた高杉晋作は同年12月に下関へ戻り挙兵、翌1月には幕府へ恭順を示す保守派を倒し、幕府への対決姿勢を明らかにします。
これに神経を尖らせた幕府首脳は五卿の元に集まる志士や筑前勤皇党の不穏な行動を突きつけ、福岡藩に立場を明確にするよう強く迫ったものと思われます。
このような幕府の圧力により1865年6月、藩主黒田長溥(くろだながひろ)の命で筑前勤皇党の藩士は捕縛拘束されます。
そして10月には家老加藤司書以下7名切腹、月形洗蔵以下14名斬首、その他流刑、謹慎は100名以上という処罰者を出し、筑前勤皇党は壊滅します。以後は佐幕派の野村、浦上、久野の三家老が藩政を執ることになります。
これが「乙丑の獄」といわれる政変で、福岡藩は薩長土にパイプを持つ主だった人材を失うことになります。 そして翌1866年6月には第二次長州征討が行われますが、不参加の藩や離脱する藩が出たことにより幕府は長州と停戦せざるおえなくなり、翌1867年10月に最後の将軍の徳川慶喜は大政を奉還し、徳川幕府は終焉を迎えます。
これに代わって朝廷と薩長土を中心とする新政府が政権を握ることになりますが、「乙丑の獄」で新政府への足がかりをなくしていた福岡藩は徐々に苦しい立場に追い込まれて行く事になります。


写真は「乙丑の獄」で刑死した月形洗蔵が眠る「少林寺」の門前になります。

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