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 【福岡城に天守はあったか?】-福岡の歴史に登場しない幻の天守閣-

福岡城 天守台
以前は福岡城に天守閣はなかったいうのが定説だったようですが、最近になって細川家の古文書より「黒田長政が天守閣を取り壊すらしい」といった文書が見つかったため、その存在の真偽の議論が活発化しているようです。
福岡城は1607年に完成していますが、「完成」という事はこの時点で天守閣まで出来上がっていた事になるのではと短絡的ではありますが、ついそう考えてしまいます。 また現存する天守台を実際に見学した者とすれば、「ここに天守閣がなかったハズがない!」と感想を持ってしまうのですが・・・。
どちらにしても1640年代の福岡城古図には天守閣が描かれず、 少なくともこの頃には天守閣が存在しなかったというのは事実ようです。

 1601年 福岡城築城始まる
 1604年 黒田如水死去
 1607年 福岡城完成
 1614年 大坂冬の陣
 1615年 大坂夏の陣(大坂城落城)
 1616年 徳川家康死去
 1620年 細川忠興の手紙(細川家古文書)
 1623年 黒田長政京都にて死去
 1632年 黒田騒動
 1646年 福岡城古図に天守閣描かれず

左の年表はこの頃の黒田家に関連するおおまかな経緯です。 これは天守閣の有無の判断にはならないのですが、「大坂夏の陣」で最新式大砲の攻撃により崩壊してゆく大坂城を目の当たりにした長政は天守閣の不要性を思い「御代には城も入り申さず候」(細川忠興の手紙)という考えに至ったのではないでしょうか。



この記事は『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』「福岡城」の内容を参考、引用させていただきました。

「福岡城」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2014年3月9日(日)11:50
http://ja.wikipedia.org/wiki/
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 【荒生田神社】-北九州市八幡東区-



荒生田神社

当荒生田神社は二つの社が合併して出来た神社である。 明神社は字川ノ上(現在八王子橋付近の山にあり、天平十二年(西暦740) 板櫃川の戦で敗れた藤原広嗣の霊を祀った。初祀の時期は定かでないが、 おそらく十一世紀平安末以降と推定され、天保四年(西暦1832)大暴風雨により社殿は倒壊した。 藩政期には崇敬の主力は水神社へと移行しつつあった。 水神社は彌都波能売命(みづはのめのかみ)を祀り字岩渕に鎮座、 慶長二年(西暦1597)の時の庄屋によって岩渕堰取水口(現在七条端下) の守護神として祀られ、元禄年間(西暦1688)現在地に茅葺の神殿に茅葺の拝殿、 少彦名命(すくなびこのみこと)を併せ祀り、神社のていさいは整って荒生田村の産土神 (うぶしなのかみ)となった。 明治政府は神社合祀政策を進め 荒生田村においても明治三十五年、明神社と水神社を合併し到津八幡宮の末社として社名を荒生田神社と改稱す。
爾后(じご) 昭和十一年の大改築で現在の赤銅葺欅造り社殿が完成した。

荒生田神社の案内板より

738年、時は奈良時代中期、大宰府に左遷された藤原広嗣はその2年後、政権中枢にある玄昉と吉備真備を弾劾するため兵を挙げ、板櫃川(いたびつがわ・北九州市八幡東区)で官軍と対峙しますが、官軍の将・佐伯常人(さえきつねひと)との論戦で大義がないことを指摘されると兵を引き、西へ敗走することになります。 この「板櫃川の戦い」の舞台となったのが、荒生田神社の裏手を通り到津に流れる板櫃川の一帯といわれています。











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スポットライト人物伝


【佐伯連男(さえきのむらじおとこ)】
(?~?)


「壬申の乱(672年)」で大友皇子の意を受け筑紫に派遣され、筑紫率の栗隈王に援軍を出すよう命令した人物です。栗隈王がこれを拒否したため佐伯連男は栗隈王を斬ろうとしますが、護衛が栗隈王のそばから離れようとしなかったため果たせず筑紫を去りました。
想像になりますが、この人物は「乙巳の変(645年)」に関わった佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)の近親者と思われます。




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