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検索の結果 7件の記事が見つかりました


母里太兵衛像(光雲神社内)【名所旧跡・中央区城南区】
光雲神社(てるもじんじゃ)は1909年、西公園に建てられた神社です。 神社名はここに祀られる黒田如水公と黒田長政公の法名から一字ずつ取られたものです。 余談になりますが、参拝させていただいた時、拝殿でお賽銭を入れるとどこからか鶴の鳴き声がして少々驚かされた事がありました。おそらく福岡城の.....

福岡城跡(城内・舞鶴公園)【名所旧跡・中央区城南区】
以前から「福岡城には天守閣がなかった」と言われていたようですが、最近では「築城当時には存在したものも黒田長政が幕府への配慮から取り壊したのでは」といった話も出ているようです。 また短い期間ですが藩祖・黒田如水は福岡城の基礎ができると太宰府の草庵よりこの城の三の丸・御鷹屋敷に移り余生を過.....

福岡の変(1877年)【福岡史伝・幕末・維新】
熊本、秋月、萩の乱が醒め遣らぬ1877年2月、薩摩の私学校生たちの暴発に引きずられる様に西郷隆盛が決起すると、 福岡でも薩軍に呼応するため元福岡藩士の武部小四郎や越智彦四郎が準備を始めます。 そして薩軍の決起より約2ヵ月後の3月27日、200名余りで兵を挙げますがこの頃、 薩軍は田.....

黒田氏筑前入り(1600年)【福岡史伝・戦国】
福岡藩初代藩主、黒田長政の父、黒田如水は切れ者の野心家として知られ戦国の世に豊臣秀吉の参謀として歴史の表舞台に登場しますが、その秀吉自身も如水の智略、策謀には舌を巻いたといわれています。 九州平定後、秀吉は如水の功績に見合うとはいえない低い石高の豊前中津12万石を与えますが、これは如水の才能を警戒.....

新羅海賊の入寇(869年)【福岡史伝・平安】
平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。 676年朝鮮統一を果たした新羅はこの頃には衰退期を迎え、地方の王族や豪族が力を持ち始め、各地で反乱が起こります。 このような混乱の中で新羅の海賊の行動が活発化するのです。 博多では869年に2隻の海.....

お綱門の事(福岡城内での悲劇)【福岡悲話】
福岡城には戦前まで「お綱門」という門が残っていたそうです。第二代藩主・忠之の頃、城に乱入しようとした女人が門番に斬られ、この門まで辿りつき絶命したといわれるいわく付きの門になります。その女人の名が「お綱」でこの事件の頃からこの門は「お綱門」と呼ばれるようになりました。そして巷では「お綱門に触ると高熱.....

福岡城に天守はあったか?(福岡の歴史に登場しない幻の天守閣)【わかっていない事】
以前は福岡城に天守閣はなかったいうのが定説だったようですが、最近になって細川家の古文書より「黒田長政が天守閣を取り壊すらしい」といった文書が見つかったため、その存在の真偽の議論が活発化しているようです。 福岡城は1607年に完成していますが、「完成」という事はこの時点で天守閣まで出来上がっていた事.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
君子は己を省みる。人を毀る暇あらんや。
伊藤東涯





福岡史伝・鎌倉
 【源平合戦後の九州】(1185年~)

「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡すると、平家側の武将であった原田種直は領地を没収され鎌倉で囚われの身となります。 そして九州には源頼朝が武藤資頼(すけより)、大友能直(よしなお)、島津忠久(ただひさ)を派遣し、 武藤氏は九州北西部(現在の福岡北部、佐賀、長崎)、大友氏が九州北東部(現在の大分、福岡南部、熊本)、 島津氏が九州南部(現在の鹿児島)の守護を務めます。 この三家が鎌倉時代から室町時代にかけて九州の「武家御三家」とされ中心的な役割を果たして行くことになります。 ただ肥後には、以前からの豪族、菊池氏、阿蘇氏などのに加え、肥後南部には下向した相良氏が、日向には伊東氏が勢力を張ります。また、
筑前では守護の武藤氏が武家では初めてとなる大宰少弐職にも就き、後に官名の少弐氏を名乗ります。 一方、原田種直は後に許され怡土(いと・福岡北西部)に領地を得、 その後には種直の近親者(父?子?・不明)の種雄(たねお)が源頼家より秋月を与えられ秋月氏の始祖となります。 また「筑前国続風土記」では戦国時代に高橋紹運が継いだ高橋氏もこの原田氏より派生した一族とされています。
そしてこれら大小の武家が元寇では共に戦い、 また南北朝から戦国時代にかけ入乱れての戦いを繰りひろげてゆくことになるのです。

(2015.3.25)









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スポットライト人物伝


【黒田忠之(くろだただゆき)】
(1602年~1654年)


行動に何かと問題のある嫡男・忠之は黒田藩の後継者から外されそうになりますが、栗山大善の支援によりその立場を守ります。 しかし初代藩主・長政の没後に藩主の座についた忠之は栗山大善と不仲になります。 二人の関係が泥沼化すると忠之はついに大善から幕府へ訴えられます。 改易が相次いでいた時期でもあったため黒田藩も取り潰しの憂き目に合いますが、 幕閣の配慮により大善は南部藩預かりとなりことは収められました。



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