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一夜漬け福岡史
 【江戸時代】-「黒田騒動」と名著の刊行-

金龍寺の「貝原益軒像」
二代藩主の黒田忠之(ただゆき)は自分を藩主の座に就けた栗山大善と不仲となり修復不可能となると、 遂に栗山大善より幕府へ「謀反の意思あり」と訴えられます。 幕閣は関ヶ原以来の徳川家と黒田家の関係を配慮し、栗山大善を南部藩預かり、 忠之の寵臣を高野山への追放し事を収め、黒田藩の改易は回避されました。 因みにこの事件は「加賀騒動」、「伊達騒動」と共に江戸時代の三大お家騒動と呼ばれています。

江戸時代の中盤には文化の隆盛を迎え、貝原益軒(かいばらえきけん)の「養生訓」「筑前国続風土記」「大和本草」、 宮崎安貞(みやざきやすさだ)の「農業全書」などの名著が福岡より世に出ます。
そして1784年には志賀島より「金印」が発見され、福岡藩校の甘棠館(かんとうかん)館長・亀井南冥(かめいなんめい)により 「後漢書(ごかんじょ)」に記載される後漢の皇帝が奴国王に送った「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」印と鑑定されます。 これが現在、福岡市博物館に所蔵される金印になります。
(2012.11.27)


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名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【日吉神社】-太宰府市観世音寺-



日吉神社

【日吉神社】
観世音寺の鎮守であり、地元ではヒヨシ神社と呼ばれる。 比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので、平安時代末には置かれていたらしい。 江戸時代の地誌によると”豊臣秀吉が九州下向の折、この日吉社に陣を張ったが、 時の観世音寺の別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て秀吉の怒りをかい、寺領を没収された”と伝えられる。

太宰府市
「日吉神社」の案内板より


案内板に記載されている「江戸時代の地誌」とは貝原益軒の「筑前国続風土記」のことで、この神社は「山王社」の名で紹介されています。 その中には「豊臣秀吉は島津を降伏させ筑前に戻ると、安楽寺(太宰府天満宮?)に詣でるが、 その時この神社に陣をとった。」といったことが書かれています。
ところで寺領を没収された観世音寺の別当は、秀吉の威風を知らなかった訳ではなく「軍は仏法を犯すべからず」といった意識が強かっただけなのかもしれません。 そして秀吉は九州を平定し天下統一を目前にしたこの頃より徐々に明朗快活な性格を霞ませながら権力の虜となってゆくことになるのです。











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スポットライト人物伝


【藤原隆家(ふじわらたかいえ)】
(979年~1044年)


平安時代の名門出身の隆家は大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任中、博多湾に来寇した「刀伊の海賊」と戦い撃退します。 しかし残念な事に10代の頃に花山法皇の袖を矢で射抜いてしまうといった事件を起こしています。 この人の性格と爽快な生き方から後世の人からもっと注目されてよい人物なのですが、 もうひとつ注目されないのはその事件がネックになっているのかもしれません。



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