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余談
 【歴史語呂合わせ】

中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。
高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。

漢倭奴国王印(57年)金印GO奴国(ゴーナこく)へと
親魏倭王印(239年)卑弥呼にサンキュー(ニサンキュー)
小野妹子の遣隋使(607年)旅で穴あき蒸れない(ムレナい)靴
乙巳の変(645年)虫殺し(ムシゴろし)の乙巳の変
白村江の戦い(663年)ムッ無残(ムッムザン)な戦い、白村江
大宝律令(701年)直いー(ナオイー)法律、大宝律令
平城京遷都(710年)南都(ナント)・奈良の平城京
三世一身の法(723年)何さ(ナニサ)、三世一身の法って?
平安京遷都(794年)鳴くよ(ナクヨ)ウグイス平安京
藤原純友の乱(939年)臭く(クサク)ないのか?純友反乱
平家滅亡(1185年)いい屋号(イイヤゴウ)の平家も滅亡す
鎌倉幕府成立(1192年)いい国(イイクニ)造ろう鎌倉幕府
新説・鎌倉幕府成立(1185年)いい国(イイクニ)造ろう7年前
建武の新政(1334年)いざ見よ(イザミヨ)建武の新政
応仁の乱(1467年)人世虚(ヒトヨムナ)しき応仁の乱
本能寺の変(1582年)一期は二度(イチゴハニど)なし、信長死す
関ヶ原の戦い(1600年)ヒーロー達の関ヶ原
徳川幕府成立(1603年)ヒーローさん(ヒーローサン)徳川家康大将軍
享保の改革(1716年)粋なヒーロー(イキナヒーロー)徳川吉宗
寛政の改革(1787年)定信の「質素倹約」、喜ぶ金持ちいないわな(イナいワナ)
天保の改革(1841年)人はよい(ヒトハヨイ)水野忠邦
ペリー来航(1853年)人はいつた見(ヒトハイツミ)た黒舟来航
池田事変(1864年)池田屋向かう新選組(イけだヤムかうシんせんぐみ)
禁門の変(1864年)一か八、無視(イチかバチ、ムシ)する門で戦いに
大政奉還(1867年)人は空(ヒトハムナ)しき大政奉還

受け売りですが、受験生の役に立てたら幸いです。


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博多の人魚伝説(消えてなくなった人魚塚)【意外な話】
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歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

応仁の乱-筑前-(1467~1478年)【福岡史伝・南北朝・室町】
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九州南北朝年表(1336年~)【福岡史伝・南北朝・室町】
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南北朝・室町時代(「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ)【一夜漬け福岡史】
1336年、後醍醐天皇軍との戦いで不利に陥った足利尊氏は、いったん京都から九州に落ち態勢を立て直そうとしますが、九州に上陸早々、 肥後より攻め上って来た菊池武敏の軍と博多より4キロ程北東の多々良浜で対決することになります。 決戦を前に尊氏は多々良川の対岸に布陣する敵の大軍を目の当たりにし.....

筑前にも超能力者がいた?(筑前に存在した幻術師・火亂)【意外な人物伝】
「三国志演義」には于吉(うきつ)、華佗(かだ)、左慈(さじ)などの特殊な能力を持った人物が登場しますが、日本の戦国時代にも果心居士(かしんこじ)という不思議な能力を持った人物が現れ、信長や秀吉、家康といった時の人を翻弄したといわれています。この果心居士が実在の人物かどうかは読者の判断にお任せするしか.....









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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

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余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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Fアイテム
 【太宰府天満宮の「麒麟像」】(1852年)-トーマス・グラバーと麒麟像-

太宰府天満宮の「麒麟像」
太宰府天満宮の境内には、「麒麟像」があります。私も子供の頃からその像を知っていましたが、単なる写実性の高い動物像だと思っていました。 学生の頃にこれが中国の空想上の動物「麒麟」だと知りましたが、その写実性?の高さから、西洋美術を学んだ芸術家に依る最近の作品だろうという思いは変わりませんでした。
最近になってこの「麒麟像」が1852年に寄贈されたものと知り「ヘーッ!」驚いたことがありました。
1852年といえば幕末、黒船が来航する1年前のこと、当然、日本は鎖国中。中国で製造されたものが入ってきたのか、蘭学を勉強した芸術家によって鋳造されたのか、ネットで調べたのですが、残念ながら結論は出ませんでした。

ところで、この「麒麟像」には、おもしろい逸話があるようです。 長崎のイギリス人商人のトーマス・グラバー氏は五卿の側付きの志士たちに会うためか(明治に入ってからか?)、太宰府天満宮を数回訪れています。その度にこの「麒麟像」を鑑賞していたそうです。本当の話かは不明ですが、グラバー氏はこの「麒麟像」をどうしても欲しくなり、宮司さんに譲ってもらえないかとお願いしたという話があります。 この「麒麟像」現在も天満宮に現存することを考えると、宮司さんが「これは売り物ではありませんし、施主さんに失礼になりますので・・・」と丁重にお断りした情景が想い浮びます。
しかし「麒麟像」の事が心の片隅から離れないグラバー氏は、その後、アメリカ人のビール会社を引継ぎ社名を「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」として、新ブランド「キリンビール」を発売しました。この会社が発展して現在のキリンビールになったということです。
もしかしたら、ラガービールのラベルの絵柄は、天満宮の「麒麟像」がモデルなのかもしれないと思うと、福岡人としてはチョットうれしい気分になってきます。









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スポットライト人物伝


【黒田長政(くろだながまさ)】
(1568年~1623年)


豊臣秀吉の参謀・黒田官兵衛(如水)の長男として生まれます。十歳の頃に父・官兵衛の謀反が疑われ織田信長に殺されかけますが、 秀吉の部下・竹中半兵衛に匿われ命を取り留めます。それから二十数年後に秀吉が死去し「関ヶ原の戦い」が起こると、 徳川家康の東軍に属します。この戦いは小早川秀秋の寝返りで東軍が勝利を大きく引き寄せたといいますが、 この「寝返り」を事前に根回ししたのが長政だといわれています。戦後、長.....[全文を表示]



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