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一夜漬け福岡史 【南北朝・室町時代】-「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ-
この「多々良浜の戦」で少弐氏と原田氏は尊氏側、秋月氏は菊池側で参戦しています。 「多々良浜の戦」に勝利した尊氏は九州武士団を率い再び京都へ向けて攻め上りますが、 九州を去るにあたり配下の一色範氏(いっしきのりうじ)を九州探題として残します。 しかし、この処置が筑前を地盤とする少弐氏にとって面白いはずがなく、当然の流れとして一色氏との対立が起こります。 また、この北朝側の内紛に乗じ肥後の菊池氏も再び筑前に進出し、筑前三国志の様相を呈します。 少弐氏は一色氏との争いで不利な状況に落ち入ると「敵の敵は味方」という訳で菊池氏と手を組み、 一色氏を九州から追い落とします。 しかし共通の敵が消えると再び少弐、菊池の両氏は争います。 1359年、日本の三大合戦に挙げられる「筑後川の戦い」で両者は激突します。 双方合わせて10万の兵が入り乱れて闘い、4人に1人が死傷するという未曾有の戦いになりました。 結果的に少弐氏が不利な状況で戦いは終わり、2年後に菊池氏が大宰府を奪います。 その後、斯波氏、渋川氏が九州探題に任命されるも北朝方は九州を挽回できず、今川了俊の就任によって漸く大宰府を奪還します。 その20年後に南北朝が統一されると、1395年に今川了俊は失脚し京都に呼び戻され、九州探題には渋川氏が任命されます。 しかし当然の事として歴代の探題とそりの合わない少弐氏と争うこととなります。 この争いに乗じ、今川了俊の九州制圧を手助けした長門周防の大内氏が筑前に勢力を伸ばします。 これにより渋川氏も少弐氏も肥前に追われます。そして1467年に「応仁の乱」が起こり10年ほど動乱が続きますが、 少弐氏はこの混乱で兵力が手薄になった大内勢を追い筑前を奪い返します。しかし少弐氏の筑前支配も「応仁の乱」の収束と伴に終わり、 再び筑前には大内氏が大軍を送りを勢力下に置きます。 少弐氏は以後も筑前の奪還を試みますが、ついには配下の離反が起こり龍造寺氏に攻められ滅びます。 そして龍造寺氏は肥前で勢力を拡大し戦国大名にのし上ります。 (2012.11.26) 関連記事:南北朝,室町 |
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一夜漬け福岡史 【幕末・明治】-勤皇の志士たちと「秋月の乱」-
しかし京都では1863年8月に突然政変が起こり、朝廷に強い影響力のあった長州藩を会津薩摩の両藩が追い落とし、 三条実美(さんじょうさねとみ)ら長州派の七卿も西へ落ち延びます。これが「七卿落ち」で真木和泉も長州までこの一行に同行しています。 そして平野國臣は七卿のひとり澤宣嘉(さわのぶよし)と共に但馬生野で「生野の変」を起こし幕府に抵抗しようとしますが失敗し 捕らえられ京都六角獄舎へつながれます。 翌年、長州藩は京都に兵を送り巻き返しを図りますが、再び会津・薩摩藩に敗れます。 これが「禁門の変」で真木和泉も長州側の武将として戦いますが、 敗戦が濃厚になると京都より南西の天王山に登り同志と共に自刃して果てます。 前日には平野國臣もこの戦いの混乱で六角獄舎にて斬首されており、筑前筑後の二大巨頭はここに志半ばで斃れることになります。 その後、長州藩は第一次長州征討で幕府に屈したため、下関に滞在していた五卿は福岡藩に移されることになりました。 この時、福岡藩は王政復古思想を理由に蟄居させていた筑前勤皇党の月形洗蔵(つきがたせんぞう)の罪を許し、 五卿を迎えるため下関へ向かわせます。 月形の説得に五卿は太宰府遷座(せんざ)を了解し、翌年2月13日に太宰府の延寿王院(えんじゅおういん)に入ります。 これより延寿王院には多くの長州、薩摩、土佐、筑前勤皇党の志士たちが訪れ、語らい、のちの「薩長同盟」のきっかけとなっていきます。 また月形ら筑前勤皇党は、幕府に恭順する長州藩保守派に追われる高杉晋作を 大宰府五条の酒蔵「中村酒屋」や野村望東尼(のむらもとに)の「平尾山荘」へ匿っています。 しかし、これら筑前勤皇党の活動が幕府の耳に入らぬ訳はなく、福岡藩には幕府より圧力がかかったものと思われます。 1865年6月、突然「乙丑の獄」(いっちゅうのごく)が起こり、月形洗蔵をはじめ筑前勤皇党の中心人物二十一名が粛清され、 その他百名以上が処分を受けます。ここに筑前勤皇党は壊滅し、福岡藩は薩長土にパイプを持つ主だった人材を失います。 そして明治政府が樹立されると「乙丑の獄」で新政府への足がかりを失っていた福岡藩は苦しい立場に追い込まれてゆくことになるのです。 1867年に樹立された明治政府は西洋の文化を次々に取り入れ、1869年には四民平等を勧めます。 そして1876年に「廃刀令」が発せられると、西日本各地の士族が怒りを爆発させます。 熊本では「神風連の乱」、福岡では「秋月の乱」、山口では「萩の乱」が起こります。 「秋月の乱」といえば一般的に宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)が中心人物といわれていますが、 実際には車之助は決起に消極的だったようで、 実弟の今村百八郎(いまむらひゃくはちろう)が、決起しないよう説得に現れた警察官・穂波半太郎を斬ったことでその場に居た者たちは、 決起を決断せざるおえなくなったといわれています。 しかし反政府活動は波及せず、この4日後には宮崎車之助ら乱の中心的な人物7名が自刃し乱は終息へ向かいます。 それから3ヵ月後の薩摩では私学校生たちの暴発に引きずられる様に西郷隆盛が決起し西南戦争が勃発します。 明治政府に不満をもつ福岡の士族はこれに呼応し西郷軍に合流しようと南下しますが、 現在の小郡市付近で新政府の鎮台兵に挟撃され秋月方面に逃れます。数日後には秋月に逃れた者たちも政府軍に捕縛され、 福岡士族の武力による反政府活動は終わりを迎えます。 (2012.11.29) |
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