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福岡史伝・南北朝・室町
 【九州南北朝年表】(1336年~)

九州での南北朝の混乱は60年近く続きます。1392年に両朝が統一し、この戦乱は一旦収まるかに見えました。しかし、今川氏が九州を去った後には豊前、筑前へ大内氏が触手を伸ばします。このため騒乱は応仁の乱を経て戦国時代まで続きます。 以下に筑前、筑後、肥前を中心にした南北朝~室町時代後半の年表を記載します。





■九州南北朝年表■



1336年 少弐頼尚に迎えられた足利尊氏が「多々良浜の戦い」で菊池、阿蘇軍を破り、九州武士団を率いて再び京都へ攻め上る。 尊氏は九州を去るにあたって、天皇方の押さえとして一色範氏と仁木義長を残す。

1346年 一色範氏の嫡男・直氏が九州探題に任命される。

1348年 懐良親王が肥後の隈府に入り、征西府を起こす。

1349年 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起こる。足利尊氏、直義兄弟の関係に亀裂。尊氏の庶子・足利直冬が肥後川尻に上陸する。

1351年 月隈金隈の戦い。足利直冬を擁する少弐氏が菊池氏と協力した一色氏を敗る。

1352年 2月26日、鎌倉にて足利直義が没し、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が終わる。
同年に足利直冬は九州を退去。

1353年 1月22日、旗頭を失くした少弐頼尚が浦ノ城を一色範氏に攻められ窮地に陥るが、仇敵の菊池武光が援軍に現われ助けられる。
2月2日、針磨原の戦いで菊池武光と少弐頼尚の連合軍が一色範氏を破る。

1354年 姪浜、飯盛の戦い。一色氏は長門に追われる。

1358年 4月30日、京都にて足利尊氏死去。

1359年 9月29日、「大保原の戦い(筑後川の戦い)」が起こる。足利尊氏死去で勢いづいた南朝方の菊池武光が有利に戦いを進め、少弐頼尚は大宰府に撤退する。 菊池方の被害も多大だったため肥後に引き上げる。

1361年 8月、油山青柳の戦い。菊池氏が少弐氏と戦い勝利する。少弐頼尚は豊後に逃れる。
懐良親王が大宰府に入り征西府を移す。

1362年 九州探題に任命された斯波氏経が、豊後に入り大友氏と共に菊池氏と戦う。
長者原の戦い。少弐、宗像、松浦の軍が探題・斯波氏経の嫡男・松王丸を大将として菊池勢と戦うが敗れる。 翌年に氏経は九州から撤退する。

1365年 渋川義行が九州探題に任命される。義行は九州に上陸できず。

1370年 今川了俊が九州探題に任命される。

1372年 九州探題の今川了俊が菊池武光を追い、大宰府を奪還。武光は高良山に入る。

1373年 菊池武光が没し、武政が継ぐ。

1374年 菊池武政が戦の傷が元で没し、弱冠12歳の菊池武朝が継ぐ。
隈府では懐良親王より良成親王が征西将軍職を引き継ぐ。

1375年 8月、福童原の戦い。武光の甥・菊池武安が武朝と共に高良山より筑後川を越え、武家方と戦う。 武安は了俊の軍に敗れ肥後に退却する。
菊池氏を隈府追い詰めた今川了俊は水島で少弐冬資(少弐頼尚の次男)を謀殺する(水島の変)。 この暴挙で了俊と冬資の仲を取持った島津氏久は離反し、大友親世も兵を引き上げる。 少弐家は弟の頼澄が継ぐ。

1383年 八代にて懐良親王死去。

1392年 南北朝が統一される。

1395年 今川了俊が失脚し京都に戻る。

1396年 渋川満頼(渋川義行の子)が九州探題に任命される。

1423年 九州探題の渋川義俊(満頼の子)が少弐満貞(頼澄の孫)に筑前より追われ肥前に逃れる。

1425年 渋川義俊が再起を図るが、少弐満貞に再び敗れる。義俊は従兄弟の満直に家督を譲る。
九州探題を攻撃した少弐氏の行動に対し、幕府は大内盛見を下向させ満貞を破る。

1429年 少弐満貞が菊池氏と共に兵を挙げ、大内盛見と戦う。

1431年 筑前西部まで深入りした大内盛見が怡土郡で少弐満貞と大友持直の軍に討たれる。

1433年 大内盛見の甥、持世が筑前に侵攻し少弐満貞を秋月に討つ。

1434年 渋川満直が肥前にて少弐氏の一族に討たれる。

1467年 「応仁の乱」が起こる。1477年まで11年間続く。

1469年 少弐政資(満貞の孫)が「応仁の乱」で手薄になった大内勢を筑前、豊前から追う。

1478年 「応仁の乱」が終わったため大内政弘(盛見の孫)が九州へ兵力を向け少弐政資を攻める。政弘は豊前、筑前を奪い、政資は肥前に逃れる。

1496年 少弐政資が「筑紫の戦い」で大内義興(政弘の子)の軍に敗れ、肥前にて自害する。

1533年 渋川義長(満直の曾孫)が少弐氏と手を組んだため、大内氏に攻められ自害する。ここに九州探題は滅ぶ。

1530年 少弐資元(政資の子)は「田手畷の戦い」で大内軍を撃退した龍造寺家兼の仲介で大内義隆と和睦する。

1536年 少弐資元が大内義隆に攻められ父・政資と同じく肥前多久にて自刃する。

1544年 少弐冬尚(資元の子)の家臣・馬場頼周は1530年の大内氏との和睦に関して、龍造寺家兼の逆心を疑い策を巡らし龍造寺家を討つ。 家兼は柳川の蒲池氏の元に逃れる。

1546年 龍造寺家兼は鍋島氏・千葉氏を後ろ盾に兵を挙げ、馬場頼周を討ち、少弐冬尚と敵対する。

1559年 少弐冬尚が龍造寺家兼の曾孫・隆信に討たれ、少弐氏が滅びる。


-参考 「戦国九州軍記」(歴史群像シリーズ⑫/学習研究社)-





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 【勝海舟の黒田長溥・評】(1930年頃)-蘭学の先駆だった福岡藩-

勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。

「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」

黒田長溥の蘭癖は流行に乗った他藩のまね事ではなく有力諸侯より先んじていたことが伺われます。

「同公は本草学を好み、シーボルトなどの古き説を信じて居た。」

本草学は黒田藩の真骨頂で藩士・貝原益軒の「大和本草」はシーボルトより絶賛されたといわれます。また長溥は義父の第10代藩主・黒田斉清のシーボルト訪問に同伴したといわれています。
「古き説を信じて居いた」という表現はシーボルトの時代の蘭学は幕末維新の頃には既に陳腐化していたと言う事なのでしょうか?

そして「蛮社の獄」の前後の事だと想像されるのですが、長溥は西洋かぶれを心配した保守派の家臣に諌められます。しかし、それらの意見を聞き入れることはなく逆に阿部龍、永井青崖などの家臣に蘭学を修めさせ西洋の地理や情勢を調べさせます。

「それは天保の前頃なりしが、その頃既に西洋の事に着眼せられたるは達識なるものである。」
と海舟は締めています。


談話に登場する永井青崖は福岡藩士で江戸藩邸に滞在中、海舟に蘭学を教授しています。また阿部龍は黒田斉清のシーボルト訪問に同席しその問答を「下問雑戴(かもんざっさい)」という書物に残した安部龍平の事だと思われます。「下問雑戴」には山家宿に現れた奇獣「だつ」の事をシーボルトに問う興味深い場面も記載されています。









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味酒安行は菅原道真の配流に従った人物です。道真の死去後は遺骸を牛車に乗せて安楽寺へ運び埋葬し、翌年には祠廟を創建します。 この味酒安行が立てた祠廟が後の太宰府天満宮で、現在では沢山の参拝客、観光客が訪れる福岡一の観光地となっています。



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