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意外な人物伝
 【筑前にも超能力者がいた?】(文明年間)-筑前に存在した幻術師・火亂-

「三国志演義」には于吉(うきつ)、華佗(かだ)、左慈(さじ)などの特殊な能力を持った人物が登場しますが、日本の戦国時代にも果心居士(かしんこじ)という不思議な能力を持った人物が現れ、信長や秀吉、家康といった時の人を翻弄したといわれています。この果心居士が実在の人物かどうかは読者の判断にお任せするしかないのですが、一説によるとこの人物は筑後の出身とする話があるようです。ところで博物学者の貝原益軒はこのような話にも興味があった様で「応仁の乱」が長引く文明(1469~1487)の時代、筑前別所村に火亂(からん)という山伏がいたことを「筑前国続風土記」で伝えています。
火亂は剣術の達人であり幻法(幻術)も身に着け、天性凶悪な性格で怪しげな行為を行ったため、所司(警察の長)はこれを討とうしますが、火亂はこの事を事前に察知し捕らえることができませんでした。そこで所司は火亂の弟子の式部という人物を招き火亂を討つよう依頼します。この対決では式部が火亂の右腕を打ち落としたことで勝負は決し、火亂は怒って「公命とはいえ、師を討つ罪は逃るべからず」と叫んだ後に討ち取られます。しかし その後、式部の親兄弟が様々な災いで亡くなったために式部は祟りを恐れ火亂の社を建立し祀りました。
貝原益軒はこの様に「火亂社」の謂(いわ)れを綴っています。


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歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
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応仁の乱-筑前-(1467~1478年)【福岡史伝・南北朝・室町】
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九州南北朝年表(1336年~)【福岡史伝・南北朝・室町】
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南北朝・室町時代(「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ)【一夜漬け福岡史】
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筑前にも超能力者がいた?(筑前に存在した幻術師・火亂)【意外な人物伝】
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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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2022.12.25

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意外な話
 【文永の役に神風は吹いたか?】(1274年)-元軍が消えた理由は?-

箱崎宮の「蒙古碇石(元軍軍船のいかり)」
1274年10月19日に博多湾に押し寄せた元軍は10月20日に百道、博多、箱崎と各地で暴れまわりますが、翌21日には博多湾より消え去ります。 この「文永の役」での元軍の撤退に関しては色々な説がありますが、現在では「神風が吹いた」という説は確率的に低いというのが通説になっているようです。 個人的な想像になりますが、始めから元軍は九州の占領の意思がなく、ある程度の戦果が上がれば撤退と決まっていたのかもしれません。 たとえ3万の軍があっても、大陸からの援軍は見込めず、「20日の戦い」で矢も尽き、占領どころか長期戦はとても無理な状況だったはずです。 そして一番大きかったのが兵糧の問題で、それが元軍を内陸部に侵攻させなかった理由だったのではないでしょうか。この事は元軍自身も出兵前から予想していたでしょうし、当然、日本軍も国内の兵糧をみすみす敵軍に手渡すことのないよう、手はずを整えていた事でしょう。そして時期的にも旧暦の10月といえば稲田も刈り取り済みのはずで、穀類はまとめられていたものと思われ、非常時の際、火を付ければ元軍の手に渡ることもなかったでしょう。そのことから逆に「弘安の役」は旧暦6月の来寇で当初より上陸目的で、刈入れ前の穀倉地帯を先ず占領する計画だったのではないかと想像されます。 ちなみに江南軍(元に降伏した南宋の兵で組織された軍)の船には大量の農機具が積み込まれていたといわれています。









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スポットライト人物伝


【毛利元就(もうりもとなり)】
(1497年~1571年)


主家・大内氏を倒した陶晴賢(すえはるかた)を「厳島の戦い」で破り、大内氏の地盤を手にすると次に筑前へ進出し大友宗麟と対立します。 元就は宗麟に父を殺された秋月種実に兵を与え秋月に帰還させた上、抵抗させ、 次に大友氏の有力武将・高橋鑑種(たかはしあきたね)を調略し謀反を起させます。 しかし大友宗麟の支援する大内氏残党や尼子氏が毛利の背後を脅かしたため中国へ撤退せざるおえなくなりました。



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