市名は福岡か博多か

明治21年(1888年)4月に市制が公布され、市名の議論が活発化します。そして同年10月に『福陵新報』が「福岡市ト云ハンヨリハ寧(むし)ロ博多市ト呼ブ方、甚ダ穏当ナリ」と記事にしています。
明治22年3月、市名は「福岡市」と決定されますが、翌年2月6日には議会で亀井議員が「市名変更ヲ建議シタシ、即チ福岡市ヲ博多市ト改ムルナリ」と申し立てます。
『福岡の歴史 市制九十周年記念』(福岡市発行)にはこの時の状況を「問題は本格化し、地元新聞の論調もあり世論も沸き立ち福博両派ともに活発に策動しデマも飛ぶようになった」と表現しています。
そして2月14日は採決が行われます。
議員は博多部が17名、福岡部が12名(議長1名を除く)の計29名で採決は博多派に有利な状況でした。しかし欠席が博多部からは2名、福岡部からは1名出ます。また採決では博多部から2名の不賛成者が出て、市名変更賛成者が13名となり反対者の福岡部11名と博多部2名の計13名と同数になりました。そこで議会では再び討論に戻りますが、ここで不破議長は議長席から自席に戻り、反対の意見を述べます。議長席には福岡部の八野議員が議長代理として着き、ひと通りの議論が済むと、再び採決に入ります。結果は前回と同数となりました。
ここで八野議長代理が言葉を発します。
「再議ノ末ニツキ議長ノ意見ヲ以ツテ決スベシ・・・(中略)・・・即チ問題ヲ廃棄ス」
この議会の結論により「福岡市」から「博多市」へは覆ることはありませんでしたが、この問題は昭和初期までくすぶり続ける事になります。
 
 
余談になりますが、博多部から欠席者について、故意に採決への出席を妨害されたという話しが残っています。私も図書館の書籍でこの事件の記事に触れたことがありますが、その記事には「拉致事件」と記載されていたと記憶します。二次三次の資料になるので真偽は不明ですが、ウィキペディアの「福岡市」のページにも「福岡派と博多派が互いに闇討ちをしあうという過熱ぶりであった」と書かれている通り、熾烈な裏工作が行われていたのは間違いないようです。
 


福陵新報・・・玄洋社系の新聞社。玄洋社は旧黒田藩の関係者が多く「福岡市」派だと思われるのですが、冒頭に書いたように福陵新報は少なくとも最初のうちは「博多市」を支持していたようです