柳川城跡

-柳川市本城町-
 

 
柳川市大字本城町八八の二番地
柳川市史跡指定 昭和五十三年五月一日

柳川城は永禄年中(1558~1569)蒲池鑑盛によって本格的な城としてつくられたもので天然の要害である。水の利を充分にいかした平城で堀をめぐらし扉の開閉によって場内の水が増減出来るようになっていた。
鑑盛の子鑑漣に至り天正八年(1580)龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐え柳川城攻略を挫折させた。翌年龍造寺により佐賀に於いて謀殺されその一族もすべて殺害され応永以来の蒲池一族は滅亡した。
天正十二年(1584)大友勢の筑後攻略にも柳川城に一指だも染め得なかった。
天正十五年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際してその功により筑前立花城より十九才で当地にうつされたが慶長五年(1600)関ヶ原役において西軍にくみしたため在柳わずか十三年にして解任された。この後に岡崎城主田中吉政が筑後一円三十二万石の領主として入国し柳川居城とするに及び石垣を更に高くし天守を築き従来にも増して防備を厳重にした。
戦国動乱の二度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった本城はここにおいていよいよ天下の名城としての名声をたかめた。
当時人々が(柳川三年肥後三日肥前久留米は朝茶の子)と言ったのは柳川城の堅固さを如実に物語ったものといえよう。
元和六年(1620)田中吉政の子忠政に後継なく断絶したため奥州棚倉一万石より十二万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国した。以来明治維新を迎えるまで二百五十年間立花藩の居城であった。明治五年(1872)正月十八日夕刻火を発し慶長以来威容を誇った天守閣も一夜にして消失した。
石垣については明治七年(1874)の台風により海岸堤防が決壊したためその補強に転用された。
昭和三年(1928)のかい開田後柳川商業高等学校(現在の柳川高校)柳城中学校がたてられ現在に至っている。
今は古城を偲ぶ面影はさらになくわずか開田を免れた天守閣跡のみとなり時代の要請にこたえたとはいえ往時を懐古すれば興衰のはげしさを物語るものといえよう。

柳川市教育委員会

柳川城跡

 

 
柳川藩主立花氏12万石の本拠となっていた平城跡。永禄年間(1558~1569)蒲地鑑盛入道宗雪が、支城として築いたのがはじまりと伝えられています。天守閣の高さは、10丈7尺5寸1分(約35m)、石垣の高さは4間1尺5寸(約8m)、天守閣の棟には鯱があり、その目は金色に輝いていたというほどの栄華をきわめた名城でしたが、明治5年に焼失。現在、は柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の一部を残
すのみとなっています。

(昭和53年5月柳川市文化財史跡に指定)

 

 
柳川城は永禄年中(1558~1569)蒲池鑑盛によって、近世の城郭の基礎となるものが整備され、蒲池氏が滅んだ後に、天正15年(1587)立花宗茂が入城しました。 その後、慶長5年(1600)関ケ原の役に功をたてた岡崎城主田中吉政が、筑後一円
の領主として入城すると、天守閣を備えた本格的な近世城郭を築きました。天守閣は約8mの石垣の上に築かれ、5層からなり、高さは約35mであったといわれています。本丸・二の丸の外周には城湟がめぐらされ、現在一部は川下りコースとして利用されています。
戦国の動乱の2度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった柳川城は、水の利を生かした名城として知られ、田中氏の断絶後は、元和7年(1621)立花宗茂が再び城主となり、以後、立花氏10万9千石の居城として、明治維新を迎えます。
しかし、明治5年(1872)1月18日、この天下の名城も失火により焼失し、石垣も海岸堤防の補強に使用されるなど、現在は、柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の一部を残すのみとなっています。

(昭和53年5月柳川市文化財史跡に指定)

水郷柳川には城址の他、立花家別邸だった「御花」や北原白秋の生家跡などの観光名所があります。