水城

-大野城、太宰府-
 


写真は岩屋城跡からの眺望で、中央よりやや左側に斜めに走る森が水城跡です。右手が福岡市街地や博多湾で、左手が筑紫平野北部になります。水城跡に関しては意外な話の「福岡にも長城があった!」にも説明を書いています。
 

 

【特別史跡 「水城跡」】
「水城は、天智天皇三年(六六四年)に、大宰府防衛のために築造された土塁である。
前年の天智天皇二年(六六三年)、我が国は、唐、新羅連合軍と白村江において百済と共に戦って大敗し、戦いに敗れた我が国は、朝鮮半島からの侵攻に備え、当時、博多の那の津にあった大宰の府を、軍事的に有利な現在の大宰府跡(通称都府楼跡)に移し、その防衛のために北面の四王寺山に大野城を、南面の基山に基肄城を築き、これらを結ぶ平野部に水城を築造したものである。
現在水城は、大土塁の他に、大野城市大字上大利に上大利土塁、春日市大字下白水に大土井土塁、同上白水に天神山土塁が遺存している。
水城の築造方法は、昭和四七年の発掘調査の結果、砂質土と年度を何十層にも交互に突き固めて積み上げたものであることが明らかになった。また昭和五〇年の調査では、土塁の前面である福岡市側に幅六〇メートル、深さ四メートルに及ぶ濠があり、土塁の中には濠に水を導き入れるための木桶(木製の導水路)が長さ八〇メートル、幅一.五メートル、高さ〇.七メートルの規模で通っていることが確認された。
昭和四七年の春日市の大土井土塁の調査によっても、前面に濠状のものが確認されており、水城とは前面に水を貯えて、大宰府に攻め込む敵を防いだものであろうと想定される。このことは、『日本書記』天智天皇三年の条にある。
『又筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名付けて水城と曰う。』という水城築造の記事と一致するものである。」
昭和五一年三月三一日

福岡県教育委員会
 

「水城跡」の案内板より

 



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