文永の役に神風は吹いたか? (1274年)

-元軍が消えた理由は?-

1274年10月19日に博多湾に押し寄せた元軍は10月20日に百道、博多、箱崎と各地で暴れまわりますが、翌21日には博多湾より消え去ります。
この「文永の役」での元軍の撤退に関しては色々な説がありますが、現在では「神風が吹いた」という説は確率的に低いというのが通説になっているようです。
個人的な想像になりますが、始めから元軍は九州の占領の意思がなく、ある程度の戦果が上がれば撤退と決まっていたのかもしれません。たとえ3万の軍があっても、大陸からの援軍は見込めず、「20日の戦い」で矢も尽き、占領どころか長期戦はとても無理な状況だったのではないでしょうか。
そして一番大きかったのが兵糧の問題で、それが元軍が内陸部に侵攻しなかった理由だったと思われます。この事は元軍自身も出兵前から予想していたでしょうし、当然、日本軍も国内の兵糧をみすみす敵軍に手渡すことのないよう、手はずを整えていた事でしょう。
時期的に旧暦の10月といえば稲田も刈り取り済みのはずで、穀類は分散、管理されていたと思われ、元軍も兵糧のありかを探す余裕はなかったに違いありません。そのことから逆に「弘安の役」は旧暦6月の来寇で当初より上陸目的で、刈入れ前の穀倉地帯を先ず占領する計画だったのではないかと想像されます。ちなみに江南軍(元に降伏した南宋の兵で組織された軍)の船には大量の農機具が積み込まれていたといわれています。