防人と烽の設置 (663年)

663年、新羅・唐の連合軍の九州上陸を想定し、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と烽(すすみ)を設置します。防人とは筑紫の守備のために全国より派遣された兵士で、烽とは敵の動向を知らせる狼煙台のことになります。
百済を制した新羅と唐は朝鮮半島の平定を優先し、高句麗の攻撃に向かいます。そして日本には背後を突かれる事を危惧したのか、「白村江の戦い」の捕虜と献物を送り、和平路線を取ります。
668年、高句麗は降伏し朝鮮半島は統合されますが、唐の支配を嫌った新羅は、5年程かけて唐と戦い遂に朝鮮半島より追い名実ともに統一を果たします。

以後、新羅は国の守りに力を入れたために筑紫は戦乱に巻き込まれる事はありませんでした。しかし、外冦の憂は皆無になった訳ではなく、朝廷は防人を70年ほど存続させています。
ところで防人の任期は3年間だったようですが、期限が過ぎても故郷に帰ることができない防人が多かったようで、689年に持統天皇(天智天皇の皇女、天武天皇の皇后)は「防人は年限になったら交代させるように」との命を出しています。そして奈良時代の730年には防人の派遣を止め、7年後には筑紫に残る兵士を故郷に返し防人を停止し、筑紫の兵士に壱岐、対馬を警備させたとされています。