黒田騒動 (1632年)

初代藩主黒田長政は「後継者には三男の長興(ながおき)を・・・」と考えますが、家臣の栗山大善(だいぜん)等の反対に押され長男の忠之(ただゆき)を後継者とします。しかし、この長男が福岡藩を継ぐことに不安を払拭できない長政は長興を秋月藩の初代藩主とし分藩させる事にしました。
そして1623年に長政は京都にて病没しますが、それから9年後の1632年、この長政の不安は現実となり黒田家のお家騒動「黒田騒動」が起こります。
二代藩主・黒田忠之と忠之を藩主に押した栗山大善とが不仲となり抜き差しならぬ事態に発展します。身の危険を感じた大善は藩主・黒田忠之を「謀反の意思あり」と幕府に訴えます。
これにより黒田藩は取り潰しの憂き目にあいますが、関ヶ原以来の徳川家と黒田家の関係を配慮した幕閣により、栗山大善は南部藩預かり、忠之の側近・倉八十太夫は高野山への追放で事は収められ、黒田藩の取り潰しは回避されました。
しかしこの幕府と黒田藩との密接な関係は後の明治維新の混乱期には逆に藩の足かせとなっていく事になります。