三国志に奴国の戸数記載 (200年代)

「三国志」の魏書の巻、東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に邪馬台国への道のりが記載されていますが、その間の国々の事が簡単に記載されています。それによると各国の戸数は次のとおりになっています。

地名 戸数 想定人口 備  考
対馬国(対馬) 1,000余戸 6千人 対馬は縦長の島で、かつ二つの島から成っているので、戸数はこの数より大分多かったと思われます。現人口3万3千人
一大国(壱岐) 3,000余戸 1万8千人 現人口2万8千人
末盧国(松浦) 4,000余戸 2万4千人 晋は有事の際の為に、海軍力を擁する松浦の情報に非常に興味があったと思われます。松浦市の現人口2万5千人
伊都国(糸島) 1,000余戸 6千人 糸島は土地も広く農業も盛んな所なので居住地区は分散していたと想像されます。1,000余戸という数字は前原か今宿の海岸沿いの地域の戸数と思われます。
奴国(福岡) 20,000余戸 12万人 戸数から見て1800年前の当時も北部九州の中心地だったと思われます。
不彌国 1,000余戸 6千人 不彌国(ふみこく)は福岡の宇美町とも福間(現福津市)ともいわれ、どこにあったのか意見が別れています。
投馬国 50,000余戸 30万人 邪馬台国畿内説を採ると淀川河口周辺にあった一都市、または出雲から鳥取にかけての一都市だと思われます。
邪馬台国 70,000余戸 42万人 邪馬台国畿内説を採ると奈良盆地にあった一都市だと思われます。
根拠はありませんが、想定人口は1戸6人で算出しています。

ここでは末盧国を長崎県松浦市としましたが、松浦川や虹ノ松原が現存することや松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説が残ることから佐賀県唐津市の可能性が高いと思われます。