漢委奴国王の金印 (57年)

秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年で、その「秦」は二代目で倒れ、項羽と覇を争った劉邦が「漢(前漢)」を興します。
漢は200年ほど続きますが、臣下の王莽が一時、政権を簒奪し国名を「新」とします。しかし「新」は人々の支持を得られず倒壊し、劉邦の子孫、劉秀がこの混乱を収め「漢(後漢)」を復興します。「漢委奴国王の金印」はこの劉秀(光武帝)が奴国王に送ったものです。
この「後漢」も200年ほど続きますが次第に乱れ、日本でもよく知られる劉備、曹操、孫権の三国志の時代に入っていきます。
この三国の中で一番勢いがあったのが曹操の興した「魏」になりますが、この国は劉備の建てた「蜀」を併合した後に、司馬懿(仲達)の孫、司馬炎に乗っ取られ「晋」になります。
邪馬台国の記事を記載する「三国志・倭人の条(魏志倭人伝)」はこの時代の陳寿(ちんじゅ)によって書かれたものです。
その後「晋」は三国の残りの一国「呉」を平定し中国を統一しますが、相次ぐ内部抗争で北方の異民族を引き入れることとなり、次第に自ら引き入れたその異民族勢力に南東に追われることとなります。
そして華北(中国北部)にはこの異民族たちの建てた国が乱立します。これが「五胡十六国」の時代です。
最終的に華南(中国南部)は南に追われた「晋(東晋)」の武将、劉裕が皇帝に禅譲させ「宋」を建て、華北は異民族勢力の「北魏」が統一し、ここに「南北朝」時代が始まるのです。
 
中国4千年の歴史の一部を長々と書いてしまいましたが、ここからが本題です。
 
「後漢書(ごかんじょ)」は劉裕が建てた「宋」の范曄(はんよう)という人物によって書かれました。ちなみに「三国志」は著者の陳寿自身や親、祖父が生きた時代を記述していますが、「後漢書」は後漢が倒れて200年を経て書かれたものなので、当然古い史書などを頼りとしています。その中のひとつが陳寿の「三国志」といわれ、そこから引用されたと思われる部分が各所に見られるそうです。
「後漢書」の中には次の一節があります。
 
「建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜るに印綬を以ってす。」
 
これは西暦57年のことで、この頃、倭国の南端に奴国という王国が存在したということになります。
そして1700年を経た江戸時代にこの金印が、志賀島の田地から二人の農民の手により掘り出され、大騒ぎになるのです。