藤原広嗣の乱 (740年)

天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、皇族の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握ります。
藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ひろつぐ)は、藤原氏の勢力を盛り返そうとしますが、反藤原勢力の勢いが強く、最終的に大宰府に左遷されることになります。
大宰府に入った広嗣は一年も待たずして挙兵しますが、小倉の板櫃川(いたびつがわ)で戦うことなく兵を引き敗れます。その後、朝鮮半島へ逃れようと試みますが、嵐に遭い果たせず値嘉島長野村(五島?)に潜伏しているところを捕らえれ唐津で斬られました。これが「藤原広嗣の乱」になります。

以下は余談になります。
その十数年後、藤原四兄弟の長男武智麻呂(むちまろ)の息子・藤原仲麻呂が政権を握ると、756年橘諸兄は失脚し翌年死去し、息子の奈良麻呂も謀反の罪で捕らえられ獄死することになります。
その8年後の764年、権力を掌握した藤原仲麻呂も孝謙上皇に取り入った僧、弓削道鏡を除くため謀反を起こし一家共々斬られることになります。が、またこの道鏡自身も770年に後ろ楯であった称徳天皇(孝謙上皇)が崩御すると力を失い「東戒壇」の下野薬師寺に左遷され、2年後にその地で死去しています。

「諸行無常の響きあり」とは後の言葉ではありますが、時代とは同じことを繰り返してゆくものなのかもしれません。