針磨原の戦い (1353年)

1353年1月22日、直冬が去り戦う名分を失くした少弐頼尚は大宰府の浦ノ城で九州探題・一色範氏の猛攻に晒されますが、そこに宿敵・菊池武光の南朝軍が援軍に現われたため窮地を脱します。この時に少弐頼尚は武光に感謝し「今より子孫七代まで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放っことがあってはならない」と起請文を書いたといわれます。
そして2月2日には、大宰府より3㎞ほど南の針磨原で少弐氏の加わった南朝軍が探題の軍を撃破します(針磨原の戦い)。
探題の軍は翌年にも「姪浜、飯盛の戦い」で敗れ、再起不能となった範氏は長門に逃れます。
その後、九州探題が不在となると少弐頼尚は北朝方に寄り、南北朝の対立が再び表面化してくる事になります。