「白村江の戦い」の帰還兵・博麻 (690年)

-自らを売った兵士- 大伴部博麻(おおともべのはかま)は現在の八女市上陽町の出身で663年の「白村江の戦い」に出征し、唐軍の捕虜となります。 翌年には土師富杼(はじのほど)ら4名が唐人の計画を朝廷に知らせようと帰国を考えますが、その費用がありません。そこで博麻は「自分も一緒に帰 [...]


上杉鷹山の祖は筑前人? (941年)

-大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す- 「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」) と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て [...]


「刀伊の海賊」を撃退した男 (1019年)

-暴れん坊中納言・藤原隆家- 「東(あづま)男に京女」なんて言葉がありますが粗野粗暴のイメージは東男だけの特権ではないようで、意外なことに平安時代の京男にも結構な豪傑がいたようです。 その人の名を藤原隆家といいます。父親は朝廷№1の実力者、姉は天皇の中宮(第一婦人)という名門ゆ [...]


落武者尊氏、筑前で復活! (1336年)

-多々良浜の戦いは多勢に無勢?- 後醍醐天皇軍との戦いで形勢不利となった足利尊氏は一旦京都から落ち 1336年2月下旬に九州に入ります。しかし、それも束の間3月2日には肥後から攻め上ってきた天皇方の菊池・阿蘇軍と博多東方の多々良浜で戦うことになります。 尊氏は九州に上陸して日も [...]


日本国王・良懐とは誰? (1370年)

-明の抗議に応対した親王- 時は南北朝の時代、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)は菊池武光の支援を得て1361年に大宰府を奪い、九州の北朝勢力をほぼ制圧します。この懐良親王、菊池武光の活躍に隠れてなかなか人間性が見えてこないのですが、明の史書「明史」には親王の人間性 [...]


筑前にも超能力者がいた? (文明年間)

-筑前に存在した幻術師・火亂- 「三国志演義」には于吉(うきつ)、華佗(かだ)、左慈(さじ)などの特殊な能力を持った人物が登場しますが、日本の戦国時代にも果心居士(かしんこじ)という不思議な能力を持った人物が現れ、信長や秀吉、家康といった時の人を翻弄したといわれています。この果 [...]


野上一閑と三奈木弥平次 (1581年)

-原鶴の一騎打ち- 大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりました。貝原益軒は「筑前国続風土記」巻之二十五 古城古戦場二 [...]


明史・秀吉伝 (1592年)

-中国から見た豊臣秀吉像- 中国の清の時代に書かれた「明史」には豊臣秀吉の事が描写されていますが、概要は次の通りです。 日本国王の下に関白の信長という者がいた。信長はある日、鷹狩りに出かけたが、その時、木の下に寝転んでいた男が突然飛び起きて信長に猛進してきた。この男を捕ら [...]


益軒は損軒だった! (1700年)

-益軒先生の号について- 益軒先生は若き頃に藩主・黒田忠之より怒りを買い、浪人生活を送ります。数年後に許され帰藩しそれから44年間、黒田藩に仕え「黒田家譜」を著し、また藩内の教育や施政に携わりますが、その間の号はなんと「損軒」だったというのです。何故にして「損軒」なのか、その理 [...]


自由の気風の「亀井塾」 (1762年)

-昭陽先生と生徒たち- 「漢委奴国王」の金印を鑑定した父・亀井南冥(なんめい)の後を継ぎ、私塾「亀井塾」を起した昭陽先生はある日、近隣・若者組の神事用・幟(のぼり)の揮毫(きごう)を快く引き受けますが、数日後、そのお礼にと塾へは酒が届けられます。 先生はその日の授業が終わると、 [...]


男装の漢詩人・原采蘋 (江戸時代末期)

-酒豪の女流詩人- 福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。 父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学者。兄と弟がいましたが、病弱だったため古処は采蘋に期待をか [...]


七卿落ちではなく五卿落ち? (1863年)

-五卿のその後- 1863年「8月18日の政変」で会津薩摩の両藩に長州藩が京都を追われると、攘夷派の三条実美ら七卿も長州に落ち延びました。これが世に言う「七卿落ち」です。その後、七卿の一人、澤宣嘉は1863年10月「生野の変」に平野国臣と共に身を投じ、もう一人、錦小路頼徳は18 [...]


望東尼の姫島脱出 (1866年)

-高杉晋作の救出作戦- 1865年の乙丑の獄で望東尼は、糸島半島の西約4キロの「姫島」に流されます。山荘に匿ってもらった過去のある高杉晋作はこれを知ると望東尼の救出を画策します。 1866年9月に晋作の意を受けた福岡脱藩の志士等は望東尼を「姫島」より脱出させ、下関の豪商・白石正 [...]


新選組局長・近藤勇を狙った男 (1867年)

-筑後の柔術家・篠原泰之進- 1867年11月18日、新選組は隊より離脱した御陵衛士(ごりょうえじ)の頭取・伊東甲子太郎とその同志三名を京都油小路で騙まし討ちにしますが、この報復として御陵衛士の生き残りは12月18日、京都・墨染で公務帰りの新選組局長・近藤勇を待ち伏せ狙撃し、左 [...]


人参畑先生の事 (1877年)

-男装の女医・高場乱- 最近、テレビでは美形の女医さんが話題を振りまいているようですが、40年程前の九州では女性の医師はほぼ見受けることが無かった様な気がします。しかし最近では女性も医学界で活躍するのが極普通な事になっているようで、私自身も、以前にチョットした不注意で指先を負傷 [...]


勝海舟の黒田長溥・評 (1930年頃)

-蘭学の先駆だった福岡藩- 勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。 「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」 黒田長溥の蘭癖は流行に乗った他藩のまね事ではなく有力諸侯より先んじてい [...]


月形半平太って誰? (1919年)

-薩長同盟のもう一人の立役者、月形洗蔵- 「月様雨が」 「春雨じゃ濡れて参ろう」 月形半平太は大正時代にヒットした舞台劇「月形半平太」の主人公の名前です。この架空の志士のモデルは土佐の武市半平太らしいのですが、苗字の月形は福岡の志士、月形洗蔵よりとられたものではないかといわれ [...]