平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。 676年朝鮮統一を果たした新羅はこの頃には衰退期を迎え、地方の王族や豪族が力を持ち始め、各地で反乱が起こります。このような混乱の中で新羅の海賊の行動が活発化するのです。博多では869 [...]
大宰府に配流された菅原道真公は、二人の子供と味酒安行など数人の門弟と共に大宰府政庁の南に600mほど離れた謫居(たっきょ)に入ります。 子供はまだ幼い隈麿と紅姫でした。謫居での生活は想像が及ばないほどの過酷なもので、道真公は幼い二人を連れてきたことを後悔したものと想像されます。 [...]
四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に本拠地の伊予を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。しかし同年5月に [...]
1019年女真族「刀伊」の海賊3,000が50艘の船で対馬、壱岐を襲い、博多湾に姿を現します。そして糸島東部から早良郡、能古島を荒らし、次に箱崎を攻撃します。 大宰権帥(だざいごんのそつ-大宰府長官-)の藤原隆家は警固所に集まった兵を率い、箱崎に上陸した刀伊の軍を撃退したため、博 [...]
正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降のことだと思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者 [...]
-治承・寿永の乱- 1180年の後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)により、日本各地で平家に対する募る不満が爆発します。京では源頼政が以仁王に従い、伊豆では源頼朝、木曽では源義仲が挙兵します。 以仁王自身は平家の追手に追い詰められ討たれますが令旨は各地に [...]
木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原田種直の屋敷に入ったといわれます。そのためすべての平家の人々が屋敷に入り切れず、末端の人々は野宿同然の生活を強いられたようです。 そんな状況の中、後白河法皇の院宣を受けた豊後の緒 [...]
豊後の緒方氏の兵に大宰府を追われた平家一門は博多の東の箱崎を抜け、そこから東の海岸沿いに遠賀川河口の山鹿へ向かいます。 山鹿といえば熊本県山鹿市が有名なのですが、福岡県遠賀郡の芦屋町にも山鹿という土地があり平家物語に出てくる山鹿はこちらになります。 平家一門は原田種直に護衛され芦 [...]