平野國臣の倒幕活動 (1858~1864年)

平野國臣が歴史の表舞台に登場するのは、1858年の「安政の大獄」で幕府に追われる僧・月照の警護役で薩摩藩まで付き添った時だと思われます。結局、薩摩藩は月照を受け入れず、西郷隆盛は月照と共に錦江湾へ入水します。西郷は助けられ月照は没しますが平野國臣はこの船に同船していたといわれています。
それから約3年後の1862年4月に國臣は薩摩藩士と共に京都所司代襲撃を計画しますが、島津久光の命を受けた別の薩摩藩士に捕らえられ、福岡藩に引き渡されます。國臣は福岡で投獄されますが、そこでは筆を与えられなっかたためコヨリで文字を作り紙に貼り付け文章を書きます。これが「平野國臣紙撚文書」といわれるものです。
翌年の1863年3月には許され京都に上りますが「8月18日の政変」が起こり尊王派は京都から追われます。そこで10月に七卿の一人の沢宣嘉(さわのぶよし)を擁し天領の生野で挙兵(生野の変)しますが主導部の意見が一致せず、あえなく失敗、捕縛され京都の六角獄へ投獄されます。
そして翌年7月に起こった「禁門の変」で京都には各地で火災が発生し、六角獄の近くまで延焼したため、囚人の脱走を恐れた幕府役人に処断され斬首されました。
子母沢寛氏の「新選組始末記」には、この時の生々しい状況が、牢獄内にあった村井正礼(まさのり)の手記「縲史」に記載されていることを紹介しています。

京都に戦火が広がり六角獄へも近づくと、獄舎は慌しくなり平野國臣等「生野の変」や「天誅組」の者たち、長州の志士が牢獄より引き出されます。牢獄内に残された村井正礼は何事かと様子を窺います。

「既ニシテ刑壇ニ声在り、動静啻(タダ)ナラズ、卒(タチマ)チ聞ク国臣(平野)ノ絶命ノ歌ヲ一過スルヲ、刀声に随(シタガ)ッテ断頭ノ響アリ、予キョ然タリ(私は言葉を無くしたの意)。」

「憂國十年 東走西駈 成敗天に在り 魂魄地に歸す」

この事件の翌日に天王山で真木和泉が自刃しており、筑前筑後の二大巨頭は時を同じくして壮絶な最後を遂げることとなりました。


写真は中央区西公園にある平野國臣銅像になります。