【奈良時代】-権力闘争と鑑真の来日-

奈良時代には大和政権内で、激しい主導権争いが起こります。
時の権力者・藤原不比等がこの世を去るとその子息の藤原四兄弟(藤原鎌足の孫たち)が長屋王を死に追いやり権力を握ります。これが729年の「長屋王の変」になりますが、その8年後の737年には天然痘で藤原四兄弟が次々に死去し、橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握り、唐留学僧・玄昉(げんぼう)や唐留学生・吉備真備(きびのまきび)と共に、改革を行います。これに反発して740年、大宰府に左遷された藤原広嗣(ひろつぐ)が「藤原広嗣の乱」を起こし、二ヶ月程で鎮圧され、藤原広嗣は唐津で斬られる事になります。
その後も大和政権内での権力闘争は続き、5年後には玄昉が観世音寺へ、10年後には吉備真備が筑前守へ左遷されます。玄昉は左遷の翌年に原因不明で死去しますが、吉備真備は2年後に遣唐副使として唐へ渡り、帰国時には唐の高僧・鑑真の来日に関わったといわれています。
この時に来日した鑑真和上は観世音寺に入り、現在の戒壇院の辺りで日本初の受戒を行います。
吉備真備はこの数年後に大和に戻り、重職を歴任します。そして藤原仲麻呂が乱を起すと、孝謙上皇よりその討伐を命じられています。