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名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【観世音寺】-太宰府市観世音寺-




【観世音寺】
百済救援のため九州に下り、661年、朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡)で亡くなった斉明天皇の菩提をとむらうため、天智天皇の発願によって建てられた寺。天平18年(746)完成、盛時、九州の寺院の中心であり、方三町の寺域に七堂伽藍がそびえ、府の大寺とよばれた。日本最古の国宝梵鐘は有名である。

太宰府市

「観世音寺」の案内板より


661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。
その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺に西側に隣接する土地でした。 これよりこの一帯は、「九州を管理する政治庁舎」と「大規模寺院」の建設が同時に進み、それに付随する民家や商家などが増え始め、大都市への基盤が出来上がっていったと思われます。
奈良時代には唐の高僧の鑑真が来日しこの観世音寺で初の授戒を行い、その地には十数年後「戒壇院」が建立されます。 現在の観世音寺には、鐘楼に国宝の「梵鐘」が下がり、多数の重要文化財指定の観音像、菩薩像、阿弥陀如来像など安置されています。



観世音寺 鐘楼

【国宝「梵鐘」】
「この梵鐘は京都妙心寺の鐘と兄弟と云われその古さに於いても亦優秀さに於いても正に日本一と称せられ糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられています。

   菅公の詩に
      都府楼纔看瓦色 観音寺唯聴鐘聲
           とあるのはこの鐘であります。」

観世音寺 国宝「梵鐘」の立札より
「菅公の詩」とは菅原道真の漢詩「不出門」の一部の句で、謹慎状態の謫居(たっきょ)で、今の境遇と心境を詠ったものです。

     「都府楼の屋根がわずかに見え、観世音寺の鐘の響がただ聴こえる」

全文を知りたい方は「不出門」でネット検索してみてください。 わかり易く和訳してあるページが多数、見つかると思います。



藤原広嗣と玄昉
737年京都では天然痘が流行し、当時実力者だった藤原四兄弟(藤原不比等の息子たち)が次々と倒れます。 藤原氏の有力者不在で反藤原氏の橘諸兄(たちばなもろえ)が台頭し、唐への留学僧、僧正玄昉(げんぼう)を抜擢します。 当然として改革が断行されたと想像されます。
逆に藤原四兄弟のひとり藤原宇合(ふじわらうまかい)の長男、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)は738年に大宰少弐へ左遷されることになります。 大宰府に入った藤原広嗣は、現在の悪政を批判をした上、玄昉などの処分を要求する上表文を朝廷に送りますが、朝廷ではこれを却下し、逆に藤原広嗣に出頭を命じます。藤原広嗣はこの朝廷の対応に憤り740年に大宰府で乱を起こしますが、2ヶ月程で鎮められ唐津で斬られました。
しかし玄昉もその5年後、この観世音寺に左遷され翌年の746年に当地で死去しました。死に関する噂が色々と広まったようですが真相は不明のようです。現在、玄昉の墓は戒壇院の北側に置かれています。








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戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
鑑真和上は日本僧の栄叡、普照の要請により743年より日本へ渡航を試みます。しかし弟子の反対や嵐により5度の失敗を繰り返し、753年ようやく渡日に成功します。1回目の渡航計画より11年の月日が流れていました。 九州に上陸した鑑真和上はまず大宰府の観世音寺に入り、初の授戒を行います。翌年.....

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奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。これは藤原四兄.....

戒壇院建立(761年)【福岡史伝・奈良】
753年渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、 その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、 東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下の三戒壇とされました。 .....

鑑真和上来日(753年)【福岡史伝・奈良】
日本の留学僧から来日を懇願された唐の高僧・鑑真は出国を決意しますが、暴風に遭遇したり、身を気遣う弟子や玄宗皇帝の反対で 渡航の失敗・中止を繰り返します。 そして11年の苦難の末、6回目の渡航でようやく来日を果たし、筑紫の観世音寺で初の授戒を行います。 翌年には奈良東大寺に移り、.....

奈良時代(権力闘争と鑑真の来日)【一夜漬け福岡史】
奈良時代には大和政権内で、藤原氏と反藤原氏の間で派閥間対立が起こります。 737年、天然痘で当時の有力者の藤原四兄弟(藤原鎌足の孫たち)が次々に死去すると、橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握り、唐留学僧・玄昉(げんぼう)や唐留学生・吉備真備(きびのまきび)を抜擢し、脱・藤原氏の体勢を整えます。 .....

鑑真和尚(688年~763年)【福岡人物伝】
5度の渡航に失敗し、6度目の渡航で来日を果たした唐の高僧です。観世音寺で日本初の授戒を行い、8年後にその地に戒壇院が建立されます。.....









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 【今川了俊の失脚】(1395年)

南北朝が統一(1392年)された三年後、第三代将軍の足利義満は、九州で勢力を伸ばす探題・今川了俊に危険性を覚え帰京の命を出します。 目の上の瘤だった了俊の失脚劇に少弐、大友、島津ら九州の守護たちは大喜びし、 特に「水島の変」で頭首を騙まし討ちにされた少弐氏は、敵(かたき)の了俊が無事に京に帰れるように気を配ったいいます。 京に戻った了俊は九州探題を罷免され遠江国に戻ることになります。 「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹らる」といったところなのでしょうか・・・
この失脚の裏には海外貿易の利権を欲する周防国守護・大内義弘の讒言があったと言われ、その後に筑前には大内氏が勢力を伸ばし、 博多の貿易権を手中に収めます。

(2014.11.2)









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スポットライト人物伝


【早川勇(はやかわいさむ)】
(1832年~1899年)


月形洗蔵と共に五卿の太宰府入りを実現し、薩摩と長州の仲を取持つため奔走します。 そして同じ大庄屋の出の中岡慎太郎とは強いつながりを持ち、西郷隆盛との会談を取持っています。 このような勇らの地道な努力が後の薩長同盟へつながってゆくのです。 勤皇党弾圧の「乙丑の獄」では幽閉されますが、中心的な人物の中で唯一死罪を免れのち明治政府へ出仕しています。



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