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名所旧跡・太宰府・筑紫野 【観世音寺】-太宰府市観世音寺-
「観世音寺」の案内板より
661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。 その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺に西側に隣接する土地でした。 これよりこの一帯は、「九州を管理する政治庁舎」と「大規模寺院」の建設が同時に進み、それに付随する民家や商家などが増え始め、大都市への基盤が出来上がっていったと思われます。 奈良時代には唐の高僧の鑑真が来日しこの観世音寺で初の授戒を行い、その地には十数年後「戒壇院」が建立されます。 現在の観世音寺には、鐘楼に国宝の「梵鐘」が下がり、多数の重要文化財指定の観音像、菩薩像、阿弥陀如来像など安置されています。
観世音寺 国宝「梵鐘」の立札より
「菅公の詩」とは菅原道真の漢詩「不出門」の一部の句で、謹慎状態の謫居(たっきょ)で、今の境遇と心境を詠ったものです。「都府楼の屋根がわずかに見え、観世音寺の鐘の響がただ聴こえる」 全文を知りたい方は「不出門」でネット検索してみてください。 わかり易く和訳してあるページが多数、見つかると思います。
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福岡史伝・南北朝・室町 【今川了俊の失脚】(1395年) 南北朝が統一(1392年)された三年後、第三代将軍の足利義満は、九州で勢力を伸ばす探題・今川了俊に危険性を覚え帰京の命を出します。 目の上の瘤だった了俊の失脚劇に少弐、大友、島津ら九州の守護たちは大喜びし、 特に「水島の変」で頭首を騙まし討ちにされた少弐氏は、敵(かたき)の了俊が無事に京に帰れるように気を配ったいいます。 京に戻った了俊は九州探題を罷免され遠江国に戻ることになります。 「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹らる」といったところなのでしょうか・・・ この失脚の裏には海外貿易の利権を欲する周防国守護・大内義弘の讒言があったと言われ、その後に筑前には大内氏が勢力を伸ばし、 博多の貿易権を手中に収めます。 (2014.11.2) |
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