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福岡人物伝
 【鑑真和尚】

5度の渡航に失敗し、6度目の渡航で来日を果たした唐の高僧です。観世音寺で日本初の授戒を行い、8年後にその地に戒壇院が建立されます。


関連記事:鑑真




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戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
鑑真和上は日本僧の栄叡、普照の要請により743年より日本へ渡航を試みます。しかし弟子の反対や嵐により5度の失敗を繰り返し、753年ようやく渡日に成功します。1回目の渡航計画より11年の月日が流れていました。 九州に上陸した鑑真和上はまず大宰府の観世音寺に入り、初の授戒を行います。翌年.....

観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。 その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺.....

奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。これは藤原四兄.....

戒壇院建立(761年)【福岡史伝・奈良】
753年渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、 その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、 東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下の三戒壇とされました。 .....

鑑真和上来日(753年)【福岡史伝・奈良】
日本の留学僧から来日を懇願された唐の高僧・鑑真は出国を決意しますが、暴風に遭遇したり、身を気遣う弟子や玄宗皇帝の反対で 渡航の失敗・中止を繰り返します。 そして11年の苦難の末、6回目の渡航でようやく来日を果たし、筑紫の観世音寺で初の授戒を行います。 翌年には奈良東大寺に移り、.....

奈良時代(権力闘争と鑑真の来日)【一夜漬け福岡史】
奈良時代には大和政権内で、藤原氏と反藤原氏の間で派閥間対立が起こります。 737年、天然痘で当時の有力者の藤原四兄弟(藤原鎌足の孫たち)が次々に死去すると、橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握り、唐留学僧・玄昉(げんぼう)や唐留学生・吉備真備(きびのまきび)を抜擢し、脱・藤原氏の体勢を整えます。 .....

鑑真和尚(688年~763年)【福岡人物伝】
5度の渡航に失敗し、6度目の渡航で来日を果たした唐の高僧です。観世音寺で日本初の授戒を行い、8年後にその地に戒壇院が建立されます。.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
仁者は常に人の是を見る。不仁者は常に人の非を見る。
伊藤仁斎





わかっていない事
 【「朝倉橘広庭宮」はどこ?】-斉明天皇崩御の地-

「橘廣庭宮之蹟」の碑
中大兄皇子の母、斉明天皇は百済救援のため661年3月九州に入り「磐瀬行宮(いわせのかりみや)」(福岡市南区三宅)に滞在します。 5月には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」に移り、7月にそこで突然崩御します。原因は臣下も数人亡くなっていることから疫病のためではないかとの説があります。
貝原益軒の「筑前国続風土記」に「朝倉橘広庭宮」は朝倉市須川にあったと書かれており、現在その地に碑も建っています。 須川には奈良時代の長安寺廃寺跡がありますが、続日本紀には「天智天皇(中大兄皇子)が斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した」と記されており、この筑紫尼寺が「朝倉橘広庭宮」跡に建てられた長安寺ではないかというのが須川説の根拠になっています。 しかし「那の津(那大津)」より遠方過ぎる点を疑問視する説もあるようです。
ところで斉明天皇は風雲急を告げる状況の中で九州へ入る直前、熟田津の石湯行宮(愛媛県・現在の道後温泉)に立ち寄り長期滞在しています。 これは斉明天皇が温泉を好んでいたか、湯治をしていたためだと思われるのですが、この朝倉市須川の周辺にも原鶴、吉井、筑後川、林田などの源泉が多く存在します。 そういった事より斉明天皇が滞在する宮が 「那の津(那大津)」より遠方とはいえ、この「須川」辺りの土地に選ばれても不自然さはないのではと推測する説もあります。 またこの頃、天皇の実務は中大兄皇子が遂行し、斉明天皇が自ら実務処理を執り行うこともなかったと想像されます。 個人的にはこの記事の着地点を「朝倉橘広庭宮」の所在地は不明としたかったのですが、どうも「朝倉橘広庭宮」朝倉市須川説は妥当な説のようです。


朝倉地区の幾つかの史跡を巡ってみたのですが、「朝倉橘広庭宮」が須川にあったのは間違いないようです。

「筑前国続風土記」に記載される「朝倉橘広庭宮」について詳しく知りたい方はこちらへどうぞ!
中村学園電子図書館「筑前国続風土記」(pdf)のページへリンク









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スポットライト人物伝


【鑑真和尚(がんじんわじょう)】
(688年~763年)


5度の渡航に失敗し、6度目の渡航で来日を果たした唐の高僧です。観世音寺で日本初の授戒を行い、8年後にその地に戒壇院が建立されます。



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