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福岡史伝・奈良
 【鑑真和上来日】(753年)

日本の留学僧から来日を懇願された唐の高僧・鑑真は出国を決意しますが、暴風に遭遇したり、身を気遣う弟子や玄宗皇帝の反対で 渡航の失敗・中止を繰り返します。 そして11年の苦難の末、6回目の渡航でようやく来日を果たし、筑紫の観世音寺で初の授戒を行います。 翌年には奈良東大寺に移り、そこで聖武上皇や孝謙天皇の他、多く僧に授戒を行います。 759年唐招提寺を建立し、その地で763年入寂しました。

「これ法の為の事なり 何ぞ身命を惜しまんや 諸人行かざれば 我即ちいくのみ」
これは仏法のためであり なんで命を惜しもうか 誰も行かないのであれば私が(日本へ)行くのみではないか

「愁うることをもちいざれ よろしく方便を求めて 必ず本願遂ぐべし」
悩むことなどはない 様々な方法を思考錯誤し 必ず本願を叶えることが重要なのだ

鑑真和上については井上靖氏「天平の甍」に詳しく書かれていますので、興味のある方はご参照ください。

(2011.5.20)


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戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
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戒壇院建立(761年)【福岡史伝・奈良】
753年渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、 その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、 東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下の三戒壇とされました。 .....

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奈良時代には大和政権内で、藤原氏と反藤原氏の間で派閥間対立が起こります。 737年、天然痘で当時の有力者の藤原四兄弟(藤原鎌足の孫たち)が次々に死去すると、橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握り、唐留学僧・玄昉(げんぼう)や唐留学生・吉備真備(きびのまきび)を抜擢し、脱・藤原氏の体勢を整えます。 .....

鑑真和尚(688年~763年)【福岡人物伝】
5度の渡航に失敗し、6度目の渡航で来日を果たした唐の高僧です。観世音寺で日本初の授戒を行い、8年後にその地に戒壇院が建立されます。.....









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福岡史伝・飛鳥
 【壬申の乱-筑紫-】(672年)

天智天皇が崩御すると、その半年後の672年6月に、吉野で出家していた天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が東国に向かい、挙兵の動きを示します。 時の都の大津では不穏な空気が流れ人々は避難の準備を始めます。 天智天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)はこれに対し、地方官や豪族たちに援軍を出させるために使者を向かわせるのですが、その際に「筑紫大宰と吉備国守(きびこくのかみ)の二人は大海人皇子に近い人物なので、命令に従わなければ、その場で斬るように」と使者へ指示をします。
使者は吉備に行き、吉備国守の刀をはずさせておき、命令書を渡す振りをして斬り伏せます。 次に筑紫では別の使者・佐伯連男(さえきのむらじおとこ)が筑紫大宰の栗隈王(くるくまのおおきみ)に兵を出すよう命令します。しかし栗隈王は「筑紫の兵は元々、外敵への備えで内賊を抑えるための兵ではありません。命に従って兵を出せば国が無防備となり、外敵より攻め込まれる事もありえます。そうなってからでは、私を何百回 斬刑に処すとも、後の祭りです。」と援軍を断ります。 佐伯連男は大友皇子の命に従い栗隈王を斬ろうとしますが、栗隈王の両脇には大刀を佩いた二人の息子が立ち離れようとしなかったため、任務を果たせず筑紫を去りました。
この「壬申の乱」はひと月程で終わります。戦いに勝利した大海人皇子は飛鳥に移り、翌年2月に即位の儀をとり行います。 これが天武天皇です。 そして栗隈王は乱の3年後に兵政長官に任命される事になります。


この戦いに敗れ自害した大友皇子は、正式に即位した記録がなかったため歴代天皇に数えられていませんでしたが、明治天皇によって諡号を送られ弘文天皇とされました。
(2014.10.18)









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スポットライト人物伝


【高山彦九郎(たかやまひこくろう)】
(1747年~1793年)


江戸中期から後期にかけての草莽の勤皇家で「寛政の三奇人」のひとり。40代半ばで九州を遊歴し王政復古を説き、幕府を批判しますが幕府の圧力があったのか久留米に滞在中に自刃し最期を迎えます。しかしその思想は70年後の尊王攘夷運動に大きな影響を与えます。長州で維新の原動力となった志士たちを育てた吉田松陰の号は彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」より取られたものと言われています。



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