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余談
 【奈良時代の筑後・肥後の農民たちの事】

夜明神社の首人塚
奈良時代に筑後・肥後で農政改革を行った道君首名(みちのきみおびとな)の功績は間違いなく褒め称えられるべきものなのでしょうが、その功績は農民たちの協力なくしてはなし得なかったのかもしれません。 どんな経緯があろうとも認めるべきものは認め受け入れる。そんな筑後や肥後の農民達の簡潔で柔軟な対応には、 なかなか物事が決まらない現代日本に生きる一人間として学ぶべき処があるのかもしれません。 めっきり、褒められる事が少なくなった政治家という職業ですが、もしかしたら首名の様に揺るぎのない「思い」と 揺るぎのない「政策」を持つ立派な政治家は少なくないのかもしれません。


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怡土城の築城(756年)【福岡史伝・奈良】
怡土城(いとじょう)は奈良時代に、高祖山(たかすやま)に築かれた山城になります。高祖山は福岡市西区と糸島市を隔てる位置にあり、鎌倉時代には筑前の古豪、原田氏の居城となっています。 続日本紀には「756年6月怡土城築城を始め、太宰大弐の吉備真備(きびまきび)をその責任者とした」と書かれています。 .....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

佐伯常人(?~?)【福岡人物伝】
奈良時代中頃の武人で740年の「藤原広嗣の乱」を平定するために派遣された人物です。「板櫃川の戦い」では川を挟んでの藤原広嗣との論戦で広嗣に大儀がないことを指摘し、広嗣に兵を引かせています。.....

筑紫に置かれた「漏刻」とは?(中大兄皇子の水時計研究)【Fアイテム】
漏刻とは水時計の事ですが、中大兄皇子がこの漏刻の研究をしていた事はあまり知られていません。 大宰府政庁の東側の小高い丘(月山)には漏刻が設置されていたといわれ、皇子の母・斉明天皇の藁葬(こうそう・仮埋葬)の地の恵蘇八幡宮にも漏刻が置かれていたという事です。 現在ではその漏刻は残っておらず、また具.....

荒生田神社(北九州市八幡東区)【名所旧跡・北九州地区】
738年、時は奈良時代中期、大宰府に左遷された藤原広嗣はその2年後、政権中枢にある玄昉と吉備真備を弾劾するため兵を挙げ、板櫃川(いたびつがわ・北九州市八幡東区)で官軍と対峙しますが、官軍の将・佐伯常人(さえきつねひと)との論戦で大義がないことを指摘されると兵を引き、西へ敗走することになります.....

戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
鑑真和上は日本僧の栄叡、普照の要請により743年より日本へ渡航を試みます。しかし弟子の反対や嵐により5度の失敗を繰り返し、753年ようやく渡日に成功します。1回目の渡航計画より11年の月日が流れていました。 九州に上陸した鑑真和上はまず大宰府の観世音寺に入り、初の授戒を行います。翌年.....

観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。 その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺.....

奈良時代の筑後・肥後の農民たちの事(2015年9月6日)【余談】
奈良時代に筑後・肥後で農政改革を行った道君首名(みちのきみおびとな)の功績は間違いなく褒め称えられるべきものなのでしょうが、その功績は農民たちの協力なくしてはなし得なかったのかもしれません。 どんな経緯があろうとも認めるべきものは認め受け入れる。そんな筑後や肥後の農民達の簡潔で柔軟な対応には、 なか.....

博多町割り(1587年)【福岡史伝・戦国】
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、 荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。 博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資.....

平清盛「袖の湊」を築く(1158年~1170年代)【福岡史伝・平安】
正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、 その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降と思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者を倒し権力.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
人と物争うべからず 人に心を許すべからず
豊臣秀吉





名所旧跡・博多区
 【「黒田節」像】-JR博多駅博多口-



「黒田節」像

【黒田節の由来】
文禄五年(1596年)正月、黒田長政の家臣、母里太兵衛は主命により福島正則の邸に使いした。宴酣となつて、正則は、酒杯を固辞する太兵衛に、この大杯で飲むならば褒美は所望次第と強要する。太兵衛は、この上の辞退は武士の恥辱と、即座に大杯三杯を飲みほして、正則が秘蔵する太閤秀吉下賜の名槍日本号を手に、悠々として辞去し、黒田武士の真骨頂を発揮した。今日の黒田節は、この逸話を歌つた筑前今様である。
この像は、彫刻家米治一先生の作で、福岡博多ライオンズクラブが創立五周年を記念して建立し、福岡市に寄贈されたものである。

昭和四十五年五月
福岡市長 阿部源蔵
ヒロカネ謹製
 

博多駅「黒田節像」の銘板より

      酒は呑め呑め 呑むならば
      日本一(ひのもといち)のこの槍を
      呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士

この黒田節は、黒田家の猛将、母里太兵衛が福島正則より勧められた大量の酒をすべて飲み干し、約束どおり名槍「日本号」 を受け取ったという話を謡ったものです。 博多駅の像のモデルが母里太兵衛なのかそれとも黒田節を舞う黒田藩士なのか、把握していませんが、 一般的に博多駅の像は「黒田節像」と呼ばれ、「母里太兵衛像」は別に、 中央区西公園の光雲神社(てるもじんじゃ)にたたずんでいます。











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スポットライト人物伝


【黒田長政(くろだながまさ)】
(1568年~1623年)


豊臣秀吉の参謀・黒田官兵衛(如水)の長男として生まれます。十歳の頃に父・官兵衛の謀反が疑われ織田信長に殺されかけますが、 秀吉の部下・竹中半兵衛に匿われ命を取り留めます。それから二十数年後に秀吉が死去し「関ヶ原の戦い」が起こると、 徳川家康の東軍に属します。この戦いは小早川秀秋の寝返りで東軍が勝利を大きく引き寄せたといいますが、 この「寝返り」を事前に根回ししたのが長政だといわれています。戦後、長.....[全文を表示]



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