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2022.12.25
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百八人塚(後方が塩塚城跡の地)
大和町文化財 塩塚城跡 指定 昭和五三年一一月一四日 所在 大和町大字塩塚下塩塚地区 「百八人塚」の北東約二〇〇メートルの所とおもわれる。 近世初頭の平城で、本丸の規模は、東西一五間(二七メートル)、南北一四間半(二六・一メートル)でした。 天正年間(一五七三~九一)、柳川城主蒲池鎮並(かまちしげなみ・鎮漣)の一族塩塚石見守がこの城を守りました。 天正九年(一五八一)五月二七日、佐賀城主龍造寺隆信は、佐賀の与賀(よか)で鎮並を謀殺、その勢いで翌二八日、 鎮並の弟統安(むねやす)が守る柳川城を攻め落し、さらに六月一日、統安の二男塩塚鎮貞(しげさだ)が守る塩塚城を 鷹尾城主田尻鑑種(あきたね)と共に攻めました。 鎮貞ら一族は、ことごとく討死し、城はついに落ちました。 蒲池氏百八人塚 指定 昭和五三年一一月一四日 所在 大和町大字塩塚字塚 宗樹寺前。 天正九年(一五八一)五月二八日、蒲池統安が守る柳川城が落城のとき、 鎮並夫人玉鶴姫を始め、子息・侍女ら一〇八人は、統安の二男蒲池鎮貞が守る塩塚城へ遁れました。 六月一日、塩塚城は、佐賀城主龍造寺隆信と鷹尾城主田尻鑑種に挟み撃ちにあい、落城しました。 一〇八人は、最初の間、少し東の蒲原(かまはら)に隠れていましたが、ついに自害または殺害されました。 後日、遺骸を宗樹寺の前に集め、弔ったのが百八人塚です。 玉鶴姫の遺骸は本堂の横に埋葬し、その上に若宮神社を建立、のち下塩塚の住吉宮の合祀したと伝えられています。
【平野國臣(ひらのくにおみ)】(1828年~1864年)朝廷や長州藩、薩摩藩に広い人脈を持った名の知れた倒幕勤皇の志士で、のちに「寺田屋事件」「生野の変」に関わります。 「禁門の変」の時に捕らわれていた京都六角獄で斬首され36年間の人生を終えてます。
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