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検索の結果 22件の記事が見つかりました


怡土城の築城(756年)【福岡史伝・奈良】
怡土城(いとじょう)は奈良時代に、高祖山(たかすやま)に築かれた山城になります。高祖山は福岡市西区と糸島市を隔てる位置にあり、鎌倉時代には筑前の古豪、原田氏の居城となっています。 続日本紀には「756年6月怡土城築城を始め、太宰大弐の吉備真備(きびまきび)をその責任者とした」と書かれています。 .....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

佐伯常人(?~?)【福岡人物伝】
奈良時代中頃の武人で740年の「藤原広嗣の乱」を平定するために派遣された人物です。「板櫃川の戦い」では川を挟んでの藤原広嗣との論戦で広嗣に大儀がないことを指摘し、広嗣に兵を引かせています。.....

筑紫に置かれた「漏刻」とは?(中大兄皇子の水時計研究)【Fアイテム】
漏刻とは水時計の事ですが、中大兄皇子がこの漏刻の研究をしていた事はあまり知られていません。 大宰府政庁の東側の小高い丘(月山)には漏刻が設置されていたといわれ、皇子の母・斉明天皇の藁葬(こうそう・仮埋葬)の地の恵蘇八幡宮にも漏刻が置かれていたという事です。 現在ではその漏刻は残っておらず、また具.....

荒生田神社(北九州市八幡東区)【名所旧跡・北九州地区】
738年、時は奈良時代中期、大宰府に左遷された藤原広嗣はその2年後、政権中枢にある玄昉と吉備真備を弾劾するため兵を挙げ、板櫃川(いたびつがわ・北九州市八幡東区)で官軍と対峙しますが、官軍の将・佐伯常人(さえきつねひと)との論戦で大義がないことを指摘されると兵を引き、西へ敗走することになります.....

戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
鑑真和上は日本僧の栄叡、普照の要請により743年より日本へ渡航を試みます。しかし弟子の反対や嵐により5度の失敗を繰り返し、753年ようやく渡日に成功します。1回目の渡航計画より11年の月日が流れていました。 九州に上陸した鑑真和上はまず大宰府の観世音寺に入り、初の授戒を行います。翌年.....

観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。 その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺.....

奈良時代の筑後・肥後の農民たちの事(2015年9月6日)【余談】
奈良時代に筑後・肥後で農政改革を行った道君首名(みちのきみおびとな)の功績は間違いなく褒め称えられるべきものなのでしょうが、その功績は農民たちの協力なくしてはなし得なかったのかもしれません。 どんな経緯があろうとも認めるべきものは認め受け入れる。そんな筑後や肥後の農民達の簡潔で柔軟な対応には、 なか.....

博多町割り(1587年)【福岡史伝・戦国】
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、 荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。 博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資.....

平清盛「袖の湊」を築く(1158年~1170年代)【福岡史伝・平安】
正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、 その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降と思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者を倒し権力.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
奮つてその身を世間の風浪に投じて、浮ぶか沈むか、生きるか死ぬるかのところまで泳いで見ることだ。
氷川清話





名所旧跡・朝倉・うきは
 【朝倉の三連水車】-朝倉市-

朝倉の三連水車と堀川用水と山田堰


朝倉の三連水車の観光に訪れた際には水車の見学だけではなく、何故この地に水車が必要だったのか関心をもっていただけると意義のある観光になるかもしれません。

筑後川が大きく南に蛇行する山田の地に江戸時代に設けられた山田堰。この堰は筑後川の北側に農業用水を運ぶ堀川用水へ大量の水を送り込むことを役目とします。
(写真は巨石を敷き詰めて建造された山田堰。現在はコンクリートで補強されているようです)

堀川用水は筑後川の上流から流れてくる大量の水を、その筑後川の押し出す力を利用して山地裾野の田地に運びます。
(写真は堀川用水)

水車は三連1基と二連2基の計3基がありすべて堀川用水の北側に設置されています。堀川用水の北側と南側には高低差があり低い南側には堀川用水から水を直接放流できるのですが、北側の山の裾野の田地には水車の力を利用して送水する必要があったのです。
(三島の二連水車。田植え前のためか水車はすべてメンテナンス中のようでした)

朝倉三連水車の観光は、山田堰、堀川用水と共に三点セットで見学していただければ、三連水車の意味がよく理解できると思われます。下に現地にある案内板の内容と山田堰建造の中心となった庄屋・古賀百工の碑の写真を掲載しておきます。



古賀百工の碑

日本疏水百選堀川用水
 山田堰は、大石堰、恵利堰と並ぶ筑後川三大堰のひとつで「傾斜堰床式石張堰」といい、寛政2年(1790年)に完成した日本では他にない石張り堰です。この堰の特徴は、取水量を増やし、激流と水圧に耐え得るための匠の技が随所に施されていることです。この地の庄屋、古賀百工が農民等とともに築造した山田堰は、朝倉地域の農業史を物語っており、この遺業と美しい田園を次世代に引き継ぎたいものです。
 水神社から山田堰を眺めるめると3つの水路があります。手前から砂利吐き口・中舟通し・南舟通しです。その昔、舟通しに帆掛け舟が往来し、いかだが下った情景を今に伝えます。
 この堰付近は、斉明・天智天皇にまつわる多くの伝承等も残っており、いつ訪れても彩られた四季を感じ、ゆっくり散策が楽しめます。

平成19年5月31日 朝倉観光協会

山田堰ある案内板より











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スポットライト人物伝


【武内宿禰(たけのうちすくね)】
(?~?)


日本書紀には筑紫にて神功皇后の補佐をした記述もある人物です。景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕え、 日本書紀の記述が正しいとすれば武内宿禰は300歳近い寿命を全うしたことになりますが、武内氏が数代にわたって歴任した役職ではないかともいわれています。



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