真木和泉史跡

-水天宮境内- 

 
真木和泉守保臣(一八一三~一八六四)は明治維新の中心的指導者である。水天宮神職の家に生まれ、早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、音楽にも長じ、藩校明善堂から表彰をうけた。傍らに流れる筑後川は菊池一族の誠忠を語り、少年の時に愛読した絵本楠公記は尊皇愛国の精神を培い、長じては水戸学を中心に学識を深め、しかも身をもって実践した。藩政改革を企ててならず、一時水田に蟄居したが、後に脱出して東奔西走、国事に盡し諸国の志士から「今楠公」と謳われ、その中心的指導者と仰がれた。彼は蘭方医工藤謙同と親しく、外国の事情にも通じ久留米の医学刷新に盡し、久留米藩医学舘の生みの親といわれる。また早くから薩長連合を唱えたが、時到らず、長洲藩と共に倒幕の軍を起し禁門の変に破れ、同士十六人と天王山に登り辞世の和歌を残して自刃した。

大山の峰の岩根に埋にけり
わが年月の大和魂

真木和泉像の案内板より

 
 

 
【山梔窩(くちなしのや)について】
真木和泉守保臣先生は同士と共に久留米藩を改革しようとして却ってこの地を南に去る十六○(不明)水田村(現在の筑後市水田区)弟大鳥居信臣のもとに謹慎を命ぜられた。その翌年庭の一隅に小さな家を建て、山梔窩と名づけ自炊の生活を送りつ、付近の子弟を教育し後には久留米から参加する者もあり多くの人材を養成した。これからの門下生には後には幕末の動乱に活躍し国難に仆れたものが少なくない。また平野国臣を始め諸国の同士の来訪もあり、これらと連絡して策を練り、朝廷に上書するなど、この山梔窩は尊皇倒幕の一大策源地となった。幽居十一年時勢の急迫と共に

やがて世の春に匂はん梅の花
かた山里の一重なりとも

一首の和歌を書き残して脱出し、明治維新を目指して、その中心的指導者として活躍した。この建物は史料により当時のものをこの地に模して建てたものである。

山梔窩の案内板より

 



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