【山梔窩(くちなしのや)について】
真木和泉守保臣先生は同士と共に久留米藩を改革しようとして却ってこの地を南に去る十六○(不明)水田村(現在の筑後市水田区)弟大鳥居信臣のもとに謹慎を命ぜられた。その翌年庭の一隅に小さな家を建て、山梔窩と名づけ自炊の生活を送りつ、付近の子弟を教育し後には久留米から参加する者もあり多くの人材を養成した。これからの門下生には後には幕末の動乱に活躍し国難に仆れたものが少なくない。また平野国臣を始め諸国の同士の来訪もあり、これらと連絡して策を練り、朝廷に上書するなど、この山梔窩は尊皇倒幕の一大策源地となった。幽居十一年時勢の急迫と共に
やがて世の春に匂はん梅の花
かた山里の一重なりとも
一首の和歌を書き残して脱出し、明治維新を目指して、その中心的指導者として活躍した。この建物は史料により当時のものをこの地に模して建てたものである。 |