池月の塚

-小郡市八坂-
 

 

 名馬池月塚
寿永二年(1183)、源頼朝より木曽義仲征討の命を受けた源範頼・義経は、京都に向い、宇治川をはさんで義仲軍と対陣した。源平盛衰記によると、義仲は橋を落として防備を固めたが、流れが急で渡河は非常に困難であった。このとき、佐々木四郎高綱は源頼朝より賜わった名馬「池月」にまたがり、梶原源太影季と先陣を争い、弓矢をあびながら両軍環視の中で渡河に成功し、先陣の第一声をあげた。(宇治川先陣争い)この村の古老の言い伝えによると、『佐々木高綱はその後平氏征討の軍功によって、筑後国鯵坂庄(もと平氏の領地)七〇〇町歩を賜わり、名馬「池月」と鯵坂の地に移り住んだ。そしてここに城を築き、三瀦郡笹渕村より嫁をもらい一子をもうけ、佐々木三蔵利綱と名づけたが、三年後に鎌倉幕府の命によって、利綱をこの地に残して鎌倉に帰った。この地にいる時、名馬「池月」に鞭打って領地を乗り廻っていたが、その名馬がこの地で死亡したので、その遺体をこの塚に葬った言われている。』「池月」は別名「生?」とも言い、青森県上北郡七戸町の産とか、鹿児島県揖宿郡の産とか伝えられるがはっきりしない。黒栗毛の馬で背丈は四尺八寸(1.46メートル)あり、大きくて逞しく、性質強猛で、人も馬も寄せつけず喰ってかかるので、「生?」と名づけられたとも言われている。塚のそばに、梵字の?[不明・キリーク](阿弥陀如来)を刻んだ供養塔と馬頭観世音が建てられている。老松宮の横を流れる川を馬洗川と言い、又馬渡(もど)という地名も、この名にちなんでつけられたと考えられる。小郡音頭に「ねむる池月、馬渡の里」とあるは、ここのことを歌ったものである。

昭和五十七年ニ月四日
小郡市教育委員会
小郡市郷土史研究会

「名馬池月塚」案内板より

 
「池月伝説」は北は青森、南は鹿児島まで日本各地に残るようですが、その多くは池月の産地としての伝説で、墓や塚の伝説のみが残る地は極わずかなようです。この「名馬池月塚」も産地としてではなく池月の終焉の地として紹介されています。またこの鰺坂周辺には佐々木性の方々が古くから住まわれていて、もしかしたらこの方々は高綱の末裔に当たるのかもしれません。ただ残念な事に、佐々木高綱が筑後鰺坂に領地を得た事実が歴史書の中に見あたらないため、あくまでも「古老の言い伝え」という事になっているようです。
ところで、この言い伝えはかなり古くからあったようで久留米藩の学者・矢野一貞によって書かれた「筑後国史」には西鰺坂村城跡(池月塚より南500mの地)について「土人相伝え言う佐々木高綱の城跡なり」と記されています。

写真は佐々木高綱が池月に跨り何度も何度も飛び越えたと伝わる「馬洗川」と呼ばれた小川です。そのことで、この地は馬渡(もど)と呼ばれようになったといわれています。現在はコンクリートで護岸されていますが、昭和の頃はまだ草の生す小川でした。
また「池月の塚」は養護老人ホーム「小郡池月苑」の裏手にあり、見学するには「小郡池月苑」の敷地を通らせていただくことになります。見学予定の方は一度「小郡池月苑」事務所のご担当者の方に連絡を取って出かけられた方がよいかもしれません。

 



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