平尾山荘

-平尾山荘公園-
 


 

 
 【野村望東尼】

歌人野村望東尼(俗名モト)が、夫と一緒に世間から離れ、ひっそりと暮らした山荘。安政6年(1859年)、54歳のときに夫を亡くしたモトは尼となり、この頃から大政奉還や討幕運動に沸く幕末の状況に心を痛めつつ、天皇への忠義を誓う「勤皇の志」を燃やすようになります。当時、山荘には高杉晋作、平野國臣ら藩内外の志士がひそかに集まるようになり、望東尼は彼らを必死にかくまい、励ましたといいます。

「平尾山荘」の案内板より

 
野村望東尼が勤皇の志士たちとつながりを持ったのは同じ歌人であった平野國臣を通してだと思われます。1858年の「安政の大獄」で幕府から追われる月照を匿いますがこれは平野國臣を介してのものと思われ、その後、國臣は薩摩まで月照の警護を勤めます。
この辺りから、この山荘は勤皇の志士たちが集う策動の地になっていったと思われます。そして、1964年の長州征討で恭順を示した長州藩では保守派が台頭し、討幕派の高杉晋作は福岡へ逃れこの山荘に匿われます。これは福岡藩脱藩の志士・中村円太や早川養敬、月形洗蔵等の筑前勤皇党が手配したものといわれています。
そして1865年に望東尼が乙丑の獄(いっちゅうのごく)で流配された後の山荘は一時廃屋となり草木に埋もれますが、明治の末に再整備されたとのことです。現在この地は「山荘公園」、公園前の通りは「山荘通り」と呼ばれ、長く歴史に伝えられるものと思われます。
 



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