芦屋から壇ノ浦へ (1183年~1185年)

豊後の緒方氏の兵に大宰府を追われた平家一門は博多の東の箱崎を抜け、そこから東の海岸沿いに遠賀川河口の山鹿へ向かいます。
山鹿といえば熊本県山鹿市が有名なのですが、福岡県遠賀郡の芦屋町にも山鹿という土地があり平家物語に出てくる山鹿はこちらになります。
平家一門は原田種直に護衛され芦屋に入りますが、種直は山鹿の豪族・山鹿秀遠と不和であったため芦屋海岸(広大な砂浜の地帯)辺りで引き返します。平家の人々は芦屋の砂浜を眺め「都(京都)と福原(神戸)を通うときによく通った里の名前(芦屋)と同じですね」と懐かしむと共に数年前までのよき時代を想い、重い空気が流れたことを平家物語は描写しています。

この芦屋海岸を過ぎると遠賀川河口に突き当たり、この河口を渡ると山鹿の地に入ります。現在、遠賀川には「芦屋橋」という橋が架かっていて、この橋の東に城山と呼ばれる小高い山があるのですが、この山が山鹿氏の居城であったと言われており「山鹿秀遠之城址」の碑も建てられています。
安徳天皇と平家一門はこの城山から東へ500mほど離れた陵丘の別邸に入ったと言われ、現在その地は「大君」と呼ばれ近年「安徳天皇行在所跡」という碑が建てられています。

その後、平家一門は柳が浦(現在の北九州市門司区大里)に移るものの九州に安住の地がない事を悟り、四国・屋島へ、次に長門・彦島へと逃れます。
一方、原田種直は奇しくも平家一門と別れた芦屋海岸に上陸して来た源範頼と戦うものの敗れ去り(芦屋浦の戦い)、虜囚の身となり戦後に鎌倉に送られます。山鹿秀遠は最後まで平家一門に付き従い、壇ノ浦では主力の大将として戦いますが時の勢いは変えられず敗北、壇ノ浦で平家一門と運命を共にしたのか、以後、歴史に登場することはない様です。
原田、山鹿の両将は縁戚があったとは言え、四面楚歌となった平家のために最後まで戦った義将と呼ぶに相応しい人物に違いありません。