鎮西反乱 (1180年~1185年)

-治承・寿永の乱-
1180年の後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)により、日本各地で平家に対する募る不満が爆発します。京では源頼政が以仁王に従い、伊豆では源頼朝、木曽では源義仲が挙兵します。
以仁王自身は平家の追手に追い詰められ討たれますが令旨は各地に届けられ、12月には肥後の菊池隆直が反旗を翻し、平家の武将・原田種直と筑紫で戦い大宰府は兵火に焼かれます。
これに対し平家は鎮圧のため翌年8月に平貞能(たいらさだよし)を派遣します。貞能の父・家貞は平清盛の腹心として平家の九州統治に軍事面で活躍した人物で、そのような事情から平貞能は父親の影響力のある九州の平定に任命されたものと思われます。貞能は1182年4月に菊池隆直を降伏させ京に戻りますが、その時にはもう京に源義仲の軍勢が迫り、平家一門は大混乱に陥った状況でした。そのため貞能は平家一門と共に大宰府に落ち再起を図りますが、そこに以前まで平家と主従関係であった豊後の緒方惟義が「九州より退去せよ」と勧告の使者を送りつけてきます。平家一門は大宰府をも追われ四国屋島に向かうのですが、貞能は一門とは別れ九州に留まったといわれています。

その後、平家は一時勢力を盛り返すものの1184年2月には「一ノ谷の戦い」で大敗を喫し、1年後の1185年2月1日には緒方惟義より軍船の提供を受けた源氏の軍が九州上陸を開始します。これを平家方の原田種直が葦屋浦で食い止めようと必死で抵抗しますが敗れ(葦屋浦の戦い)、平家は九州の地を完全に失います。同月の19日には讃岐で「屋島の戦い」に敗れ、平家一門は海上に逃れ最後の拠点の長門・彦島に向かいます。四面楚歌となった平家は5日後の24日に壇ノ浦で最後の決戦を挑みますが遂に敗れ、平家の人々は海に呑まれ、かろうじて生き残った兵士たちも各地へ四散します。ここに二十数年の栄華を誇った平家も滅び去ります。

鎮西反乱に関わった武将たちのその後は様々です。
平貞能は源氏に降り宇都宮氏の元で余生を送ったとされ、その貞能に降伏した肥後の菊池隆直は「壇ノ浦の戦い」まで平家方の武将として戦い、戦後に鎌倉方に斬られます。そして主従関係を絶って平家を追い落とした緒方惟義は源平合戦を勝ち抜くものの、頼朝と不仲となった義経の九州落ちに従い「大物浦の難破」に巻き込まれます。以後は豊後に戻り隠棲したとも病死したとも言われています。始終、平家のために戦った原田種直は捕らえられ鎌倉に送られるものの数年後に許され怡土の領地を再び与えられます。

そして「壇ノ浦の戦い」で生きながらえた平家の人々は九州の山深くに分け入り、「落人伝説」を残すことになるのです。

-参考「源平合戦辞典」(福田豊彦氏、関幸彦氏/吉川博文館)-

前の記事

怡土城の築城 (756年)