菅原道真大宰府配流 (901年)

大宰府に配流された菅原道真公は、二人の子供と味酒安行など数人の門弟と共に大宰府政庁の南に600m程は離れた謫居(たっきょ)に入ります。
子供はまだ幼い隈麿と紅姫でした。謫居での生活は想像が及ばないほどの過酷なもので、道真公は幼い二人を連れてきたことを後悔したものと想像されます。
配流の翌年には隈麿が亡くなり、京都からは妻の死の知らせが入ります。そして道真公自身も病を得、903年に病没します。紅姫の消息は不明なようですが「紅姫の供養塔」と言われる板碑が残っているそうです。
西鉄大牟田線を通勤通学に使用している方は「都府楼駅」と「二日市駅」のほぼ中間地点の東側に鳥居のあるこんもりとした森を見ることができると思いますが、その森が短い間三人が暮らした謫居跡「榎社(えのきしゃ)」になります。

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