道君首人の農政改革 (713年)

若き頃に法律を学び官僚としても優秀だった道君首名(みちのきみおびとな)は53歳の頃に筑後守として赴任します。年齢からして第一線を退き、引退までの繋ぎの赴任だったのかもしれませんが、首名は筑後で果物や野菜の栽培、畜産を促進し、また同時に灌漑対策も進め農政に力を入れます。
そして農民にも分かり易い箇条書きの規則を発布し、それに従わない者には罰則を科しました。
その強引な手法に人々の中には首名を陰で罵る者も多かったようですが、徐々にその政策の成果が見え始めると陰口を言うものは居なくなったといいます。
首名は自らの政策が必ずや筑後の民の生活を安定したものにすると確信していたのかもしれません。
そして718年、政策の効果を実感した首名は57歳で亡くなります。筑後に赴任して4年程の事でした。
朝廷の人々は首名の死を惜しみその功績を讃えたと「続日本紀(しょくにほんぎ)」で伝えられています。
 
 
■道君首人(みちのきみおびとな)の経歴

700年6月17日(39才) 大宝律令の選定に参加する。
701年6月1日(40才) 大安寺で大宝律令の「僧尼令」の講説(説明)を行う。(正七位下)
711年4月7日(50才) 従五位下に叙せらる。
712年9月19日(51才) 遣新羅大使に任じられる。
712年10月28日(51才) 新羅へ出発のため元明天皇に拝謁する。
713年8月10日(52才) 新羅より帰国。
713年8月26日(52才) 筑後守に任じられ、肥後も治める。
715年1月10日(54才) 従五位上に叙せらる。
718年1月5日(57才) 正五位下に叙せらる。
718年4月11日(57才) 死去。

 

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