徐福伝説は福岡にもあった? (BC210年頃)

-天山(あまやま)の童男丱女岩- 徐福は秦の始皇帝より「延年益寿」の薬を探すように命を受け、若い男女3000人と五穀の種、工匠たちを引きつれ出航し蓬萊山へ向かうが、その後、徐福は広い土地を得て王となり始皇帝の元に戻ってくる事はなかった。 これが司馬遷の書いた「史記」に載る徐福伝 [...]


漢委奴国王印の鈕は駱駝? (57年)

-金印の取っ手は蛇ではなかった- 金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。 中国の各王朝は、地方を治める王族や臣下、豪族部族に印綬 [...]


蜷城(ひなしろ)の由来 (300年代)

-カワニナの城と二つの玉- 朝倉市林田にある美奈宜(みなぎ)神社にはその地域の呼び名「蜷城(ひなしろ)」の由来が伝えられています。 大昔、ここはよく肥えた豊かな地でしたが、古処山に羽白熊鷲と言う者があり、時々山を下りてきて村人を苦しめました。 これを聞いた神功皇后は、神に祈り [...]


福岡にも長城があった! (664年)

-グーグルアースでも見れる「水城」跡- 664年、白村江の戦いで敗れた中大兄皇子は、唐、新羅の連合軍の反撃となる九州進攻に備え、博多の那の津にあった大宰府(官家)を現在の位置に移し、その防衛線として四王寺山から那珂川方面まで土塁城壁を築きました。土塁の外側(博多湾側)には濠を堀 [...]


起きたら家が動いてた!? (687年)

-筑紫の大地震- 天武天皇の時代の687年12月ある夜半、筑紫で大地震が起こります。地面には6m程の幅で1km近くに渡って亀裂が入り、多くの民家が被災しました。 丘の上にあったある農家は斜面が崩れ、家が大きくズレ落ちるものの、家屋はまったく壊れず、翌朝になって一家の人々は家が移 [...]


もう一つの都 (古墳~奈良)

-豊津とその周辺の史跡-     豊前国府中門跡 福岡の古都といえば誰もが大宰府を思い浮かべるに違いないのですが、福岡にはもう一つの古都が存在します。 それが京都郡みやこ町・豊津とその周辺の地域になります。ここには豊前国分寺や豊前国府跡、船迫窯跡(築上町 [...]


太宰府天満宮の由来 (903年)

-天満宮の牛の像はなぜ座り込んでるの?- 大宰府へ左遷された2年後の903年、道真公は失意の中、病のため死去します。門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)が遺骸を牛車に乗せて運んでいると、車を曳く牛が急に座り込んで動かなくなりました。これは道真公の意思であるということで、遺骸はこ [...]


博多の人魚伝説 (1222年)

-消えてなくなった人魚塚- 博多冷泉町にある竜宮寺には人魚の物と言われる骨が安置され、「人魚伝説」が伝えられています。 鎌倉時代の1222年、博多津(冷泉津)で150m(異説あり)に近い巨大な人魚が捕らえられ、櫛田神社に近い浜辺(現在の中洲東側の博多川辺り)に引き上げられたと言 [...]


文永の役に神風は吹いたか? (1274年)

-元軍が消えた理由は?- 1274年10月19日に博多湾に押し寄せた元軍は10月20日に百道、博多、箱崎と各地で暴れまわりますが、翌21日には博多湾より消え去ります。 この「文永の役」での元軍の撤退に関しては色々な説がありますが、現在では「神風が吹いた」という説は確率的に低いと [...]


「大刀洗」地名の由来 (1358年)

-「関ヶ原」に並ぶ大合戦「筑後川の戦い」- 1358年「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び称せられる「筑後川の戦い」が起こり、少弐、大友を中心とする北朝軍と懐良親王、菊池を中心とする南朝軍が筑後川の北側で激突します。 戦いは南朝方の有利で終わりますが、死傷者は北朝軍18,00 [...]


なぬ!!「ういろう」の元祖は? (室町時代)

-妙楽寺「ういろう」の碑- 「ういろう」の本場と言えば名古屋、小田原、京都、山口、九州では宮崎などいろんな説があるようですが、なんと「ういろう」の元祖は博多の妙楽寺にありました。妙楽寺の境内には「ういろう伝来之地」の碑が建っています。案内板が置かれていないので詳しいところは判ら [...]


万葉歌の意外な解釈 (1703年)

-御笠の森に関する逸話- 思はぬをおもふといはば大野なる美笠の森の神ししるらん この歌は奈良時代に大宰大監(筑紫の警察長官)であった大伴百代(おおともももよ)の詠んだ万葉歌で、一般的に次のような解釈がされています。 「愛してもいないのに愛していると言えば美(御)笠の森の神も [...]


筑後川の鵜飼の事 (明暦以前)

-昔は瓢箪で鵜飼?- 江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~5羽の鵜に縄をつけて操り、川の流れに乗りながら漁を行った [...]


筑前のUMA (1809年)

-放火し味噌を食い荒らす奇獣「だつ」- 「金印」や「日本号」を所蔵する福岡市博物館には明治初期に書かれた「旧稀集(きゅうきしゅう)」という書物が所蔵されています。 この本は博多中洲の庄林半助という箱曲物細工師(弁当箱や柄杓などの職人)の親方によって書かれた江戸時代後期の見聞集で [...]


巌流島は豊前領だった! (江戸時代)

-現在の島の住人は?- 宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した巌流島は山口県の観光名所として有名ですが、江戸時代は豊前小倉藩の領地だったということです。これは「関ヶ原の戦い」で敗れ徳川家より本州の西の片隅に押し込められて不満を持つ毛利家を牽制するため方策だと想像されるのですが、実際の [...]