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福岡人物伝 【筑紫広門】 筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同盟し豊後の大友氏と戦います。 筑紫広門は父・惟門が大友氏に討たれたため筑紫氏を継ぎ大友氏に表向き従いますが、「耳川の戦い」で大友氏が大敗を喫すると反旗を翻し、龍造寺氏や秋月氏と連繋し筑前の大友氏の諸城を攻略します。しかし、豊臣秀吉が大友氏の救援の動きを示すと大友の将・高橋紹運と和解し、九州制覇を目指し北上する島津氏の大軍に抵抗しますが力及ばず降伏し、筑後の大善寺に幽閉されます。 その後、秀吉が九州に乗り込んで来ると、動揺する島津方の兵士の隙を突き大善寺を脱出し旧領へ復帰し、その功を認められ秀吉より筑後に領地を与えられます。 その十数年後の「関ヶ原の戦い」では徳川家康により改易され、晩年は肥後の細川家で余生を過しました。 関連記事:広門 |
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福岡史伝・幕末・維新 【最後の仇討】(1880年)
両親の寝床の惨状が脳裏から離れない六郎は仇討を固く誓い、その想いは年を追うごとに募ります。そして苦節12年で旧秋月藩黒田家別邸にて出会った仇、元干城隊隊士・一瀬直久を父親遺愛の脇差で討ち果たし仇討を成し遂げます。これは明治13年(1880年)12月17日、東京銀座辺りでの出来事になります。 仇討を果たした六郎は黒田家別邸の管理者に邸を汚した事を詫び、人力車に乗り警察へ出頭します。 取調官は一通りの訊問が終わると次に、元福岡の志士・早川勇の記した書(一瀬直久を擁護し、臼井亘理暗殺を肯定視する内容)を提示し六郎に意見を求めますが、それに六郎は「早川氏が一瀬の事を擁護するのは、私が亡き父の仇を報いるのと同じことです。もし違ったとしても、死を決して為した事ですので弁解には及びません。早川氏の望むご処分を願います。」 この言葉に取調官はもう何も言うことができず、逆にその態度に同情と称賛の念を感じざる得なかったといいます。 翌年には、東京裁判所で終身刑の判決が言い渡され、六郎は石川島の監獄に収監されますが、それからしばらくして秋月では一瀬直久の父・亀右衛門が自決します。亀右衛門は臼井亘理の暗殺事件直後、手を下したのが我が子だと知ると驚愕し、直久を強く叱責したと言います。 また母・清子を刃に掛けた萩谷伝之進という人物は女を斬ったという罪の呵責と六郎の復讐に怯え狂死したと言われます。ただ、こちらは出所が不明なので地元に伝わる話なのかもしれません。 それから約十年の服役後、六郎は恩赦を得て釈放されます。六郎は後悔の念を抱くことはなかったものの、仇討とはいえ人を殺害したという思いが付きまとったのか、次の目標も定まらず十数年を気力なく生きたようです。 明治39年、九州鉄道・鳥栖駅周辺の開発に携わる叔父・八坂甚八は六郎の事を気にかけ、鳥栖駅そばに待合所を経営することを勧めます。六郎はこれを受け鳥栖に移り、以後そこで余生を過ごすことになります。そして大正6年に60歳で没し、故郷の秋月・古心禅寺に葬られます。墓碑は父・亘理、母・清子と共に並んで建てられています。 写真は両親とともに六郎が眠る古心禅寺になります。この記事は吉村昭氏の「最後の仇討」および、梅亭化作氏の「復讐奇談 倭魂故郷廼錦」(国立国会図書館デジタルコレクション)、早川勇氏の「一瀬直久履歴書」(早稲田大学リポジトリ)を参考に書いています。「一瀬直久履歴書」は書写文書で一瀬直久の死を悼み、家族に金壱百円を贈った事を記し、以降には臼井亘理の暗殺の経緯が説明されています。 (2021.4.18) |
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